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乙子城跡 登城日:(2000.1.9) 所在地: 岡山市乙子 |
歴史 | ![]() 城は、本丸・二の丸を構え、腰曲輪、出曲輪が配されている。現在の乙子大明神境内は二の丸の場所、大手筋は現在の参道筋と判断される。各郭は、ともに土段築成で、石垣は認められない。本丸の背後に土塁の一部が残っている。 乙子城は、児島湾と邑久郡千町平野それに上道郡南東部を一望でき、臨海性の戦術拠点であった。宇喜多直家は天文十二年(1543)浦上宗景の家臣となり、赤松晴政の軍と播磨で戦い殊勲をたて、この戦功と祖父能家の旧功によって、足軽三十人と三百貫の領地を与えられ乙子城主となった。直家は、ここに五年間在城し、この地の治安維持と戦功を挙げた。その恩賞に岡山市竹原(上道郡奈良部)の新庄山城を与えられ、天文十八年(1549)に移転した。その後、乙子城は持城として、弟の浮田忠家を城主に置いていたが、宇喜多直家が永録二年(1559)に亀山城(岡山市沼)に移り、岡山市平野の平定が進むにつれその存在価値が薄らぎ廃城になったのであろう。 宇喜多直家が乙子山に構えた連郭式の小型山城。後に備前、美作一帯を統一した直家の最初の居城で、「国とり」はじまりの地といえる。 乙子城は、当時の吉井川河口付近に位置し、邑久郡の穀倉地帯である千町平野の南側を画する山々の西端にある乙子山山頂にあった。北には西大寺の門前町など上道郡南東部を望み、また、南から西に広がる児島湾を隔てて児島郡の山々を遠望できた。かつての児島湾は広大で、後の新田開発によりその大半が干拓され、幸島新田、沖新田などの美作にかえられた。 戦国時代後期に天神山城(佐伯郡田土)を根拠地に備前国東半を支配した浦上宗景は、上道郡を領する松田氏、児島郡を領する細川氏、さらには、瀬戸内海の海賊からの攻撃を防ぐため、天文十三年(1544)、領地南西端に乙子城を築き、知行三百貫、足軽三十人をつけて直家に守らせた。 邑久郡乙子城古図によると城は、本丸(頂上)と二の丸(乙子大明神境内)を構え、腰曲輪、出曲輪が配されている。郭は、ともに土段築成で、高石垣は認められない。本丸には当時の土塁の痕跡がみられる。 『乙子城跡案内板』より
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資料 |
私見 | ![]()
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