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太閤門跡登城日:(2007.01.08) 所在地: 備前市浦伊部 |
歴史 |
来住法悦(?〜1609)は、安土桃山時代この地で活躍した豪商であるが、その子孫が来住家にあるこの門は、「太閤門」と呼ば
れている。 享保年間(1716〜1736)の文書「来住權右衛門上覚」によれば、羽柴秀吉が備中高松城攻め(1582)の帰途立ち寄ると約束をしたため、法悦が御殿と門を新築した。しかし秀吉は本能寺の変(1582)のため立ち寄らなかったとある。その後、御殿は妙圀寺に寄進されたと伝えられている。 現在の門は、野面積みの石垣が切れる部分にあり、しかも石垣はその部分で枡形となるなど、門と石垣の配置が特殊なものと考えられている。 平成六年、石垣を含む門の周辺一帯は「伝太閤門跡」として備前市指定史跡となったが、門の痛みがひどく、倒壊が懸念されたので太閤門保存会を組織し、浦伊部の方々、岡山県、備前市、(協)岡山県備前焼陶友会、妙圀寺、来住氏などのご協力をいただき、平成八年三月保存のための全面解体修理を行った。 『太閤門跡案内板』より
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資料 |
私見 |
片上湾に面した国道250号線、JR「西片上」駅から南東方向へ約1キロくらいいった集落の中に伝太閤門跡がありました。ちょうど浦伊部簡易郵便局の裏手の細い路地を入っていったところです。とりあえず”太閤”とついていたのでどういう歴史を持つものか知らずに訪れたのですが、しっかりと案内板も設置されており助かりました。 城としてみようとすれば、住宅となっている石垣とその切れ目にある古い門柱を持つ門、そしてその内側が枡形になっているところなど部分的ではありますが十分味わい深い遺構と言うことができると思います。 御殿はそこから少し山側に建つ妙圀寺に寄進されたということですが、同寺に行くとかなり真新しい構えでしたので立ち入ることなく戻ってきました。よく考えたら「地元豪商の豪華な屋敷跡じゃないのか・・・。」とも言えるのですが、そこはそれ太閤との約束が成っておれば、立派に太閤浦伊部御殿とでもなっていたのでしょうからねぇ。(汗) 富田松山城のついでに立ち寄る程度でも結構ですから、一度ご覧あれ。ただし地元の方のご迷惑にならないように節度ある行動をお願いいたしますね(^-^;
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