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山崎氏御殿跡


登城日:(2006.01.09)
所在地: 高梁市成羽町、成羽町美術館
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
石垣がよく残されています。  山崎氏五千石の御殿で、万治元年(1658)成羽領主として丸亀から入部した山崎豊治(後期山崎氏初代、旗本交替寄合格)が築営し、以来11代210年間明治維新まで山崎氏の本拠となった。御殿は鶴首山麓に北向きに築かれ東西約276メートル、南北約80メートル(幅のひろいところ)の広大な敷地で巨大な石垣を構築した豪壮な居館である。正面に東から御作事門、大手門、御庫門があり、外側に外園、御下馬、的場、労役場、お堀がある。屋敷内は御作場、書院、御庫の三区割になっている。石垣の積み方は「打ち込みはぎの扇の勾配」に近い積み方と「野面積」の二様となっている。石垣の高さは高いところが390メートルで上手の低い所は260メートルである。西の御庫のある石垣が「野面積」で前藩主の水谷勝隆が築造したところであり、山崎豊治がこれを引継ぎ広大な規模の御殿としたのである。諸大名の御殿におとらぬものであり、山崎氏の力の偉大さを知ることが出来る。

山崎氏御殿跡は初代豊治が築造した御殿で、築造にあたり、武者走り・石落とし・狭間・櫓・石垣の曲り・枡形などが組み入れられ、外敵の攻撃を防ぐ配慮がされ、城郭を思わす広大堅固な御殿である。豊治は特に大手門に力を入れたようで、両側の石垣には大きな石が使われている。大手門は枡形構築で枡形を取り組んで、正面(北側)に高麗門、南面・西面にカギ形に石垣、東面に櫓門をつくり守りを固めていた。明治時代に取り壊され、現在は見ることはできないが、威厳のある立派な構えであったことがうかがえる。
平成五年四月に成羽町美術館建設のため成羽町文化財専門委員会は大手門枡形遺構の発掘調査を実施する。その結果カギ形の石垣残部や櫓門跡が確認された。枡形の広さは南北に430センチメートル、東西に540センチメートル、石垣の巾は90センチである。
大手門枡形は、外敵が門を破って侵入しても直ぐには御殿内(城内)に入れず櫓門の番兵が弓矢、鉄砲を打ち外敵を倒し、撃退する構造になっている。御殿では余り見られない貴重な構造である。下記の想像図は調査結果・城郭文献・大手門の石垣などを資料にして製作した鳥瞰図である。

『山崎氏御殿跡案内板』より

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資料
 

私見
大手門跡石垣  6年ぶりくらいに山崎氏御殿にやってきました。鶴首城の北麓にある成羽美術館は、車で前を通過しただけの一瞥でも近代的な建造物と重厚な野面積みの石垣とのアンバランスぶりが強烈に視界に飛び込んできます。しかし美術館裏手側の石垣と大手門あたりの石垣とは随分とものが違うのですが、あれは後世のものなんでしょうか。丸い石を積まれた石垣がとても気になったんですが。。。
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