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日出城(暘谷城)跡登城日:(2012.05.04) 所在地: 速見郡日出町 |
歴史 | 慶長六年(1601)、日出藩初代藩主木下延俊は姫路より移封入国すると、直ちに築城にかかり、翌年八月には大方の普請ができ入城した。城の縄張り(設計)は義兄の細川忠興が行い石垣の構築は家臣で築城の名手穴生理右衛門が野面積みで築き、木材は鹿鳴越(かなごえ)の大木を用いたといわれる。天守閣は三層、二層の櫓五ヶ所、平櫓一ヶ所あり、小城ながら堅城であった。三代藩主木下俊長が中国古書「淮南子」より引用して暘谷城と命名した。 二の丸、三の丸を設け、外郭には家臣の住宅や民家を取り入れた。明治七年(1874)大分県は城内建物を競売に付し取り壊したが、その一つの隅櫓(鬼門櫓)は買却され、町内仁王地区に残っている。 本丸下の海岸は俗に「城下海岸」と呼ばれ、眺望絶佳、大分県百景、別府八景の一つに指定されている。この海中の真清水が湧く一帯は、「城下かれい」の名でしられるマコガレイの棲息地となっている。町史跡 昭和三十五年十月十七日指定 日出藩初代藩主木下延俊は、慶長六年(1601)秋より約1年の歳月をかけて日出城を築きましたが、石垣の構築は細川忠興の家臣で築城の名手・穴生理右衛門の指揮によってなされたといわれています。 「穴生」は、近江国穴太(滋賀県)の石工の集団・穴太衆を指します。穴太衆は、安土桃山時代から江戸時代にかけて多くの城の石垣を手がけました。穴生理右衛門もまたその一員であったと思われ、彼の指揮により築かれた日出城の石垣は、「穴太積み」として呼び親しまれています。 日出城の石垣は、築石に自然石や粗割石を用いた「野面積み」の技法で、「乱積み」(石材を不規則に積み上げ、横目地が通らない)と「布積み(石材を一段ずつ横に並べて据え、横目地を通す)」の中間にあたる「布目崩し積み」により構築されました。 日出城本丸天守台の石垣にみられるように、こうした規模の「穴太積み」の石垣は、大分県下においても大変珍しいといわれています。日出城の歴史とともに「穴太衆」そして「穴太積み」の歴史を語り継ぐ貴重な石垣です。 日出町立日出小学校東門南側にある鐘楼の鐘は、元禄八年(1695)三代藩主木下俊長の鋳造したつり鐘である。江戸時代は、一日十二回ついて時を知らせた。 二十一世紀を十四年後に迎える今、この名器を再びつくことにより、日の出の勢いで発展する日出町と日出小学校が新しい時代にふさわしく、さらに発展することを念じて、元禄の鐘をつこう。 −私たちの願い− 一、平和で豊かな日出町、日出小学校を創る。 二、たくましく豊かに生きよう。 三、世代を越えてふれあいを深めよう。 四、学校と地域社会の結びつきを深めよう。 五、日出町、日出小学校を心のふるさとにしよう。 六、歴史を正しく認識し、文化財を大切に保存しよう。 七、時間を守り、時を大切にしよう ・鐘をつく時刻、午前八時 ・鐘をつく回数、七回(前記の願いをこめて) 豊かな自然が残る日出町では、鹿鳴越連山や周囲の山々に降り注いだ雨が地下に浸透し、豊富な湧水として私たちの生活を潤してくれています。 俳人高浜虚子が城下かれいについて詠んだ句 「海中に真清水湧きて魚育つ」にもあるように、町内のいたるところで清水が湧き出ています。 飲料水のすべてを湧水と地下水で賄っている日出町は「おいしい水」の飲める町としても有名で、特に「出水水源」や「山田湧水」「観音の水」は大分県の代表的な湧水にも挙げられています。 隅櫓は、日出藩木下家の居城である日出城の本丸東北隅に築かれた二層二階櫓で、「鬼門櫓」とも呼ばれています。慶長六年(1601)から翌二年にかけての日出城の築城とともに築かれたと考えられますが、史料上の初出は『豊後国日出城絵図(正保城絵図)』で、十七世紀中頃には構築されていたことを知ることができます。 隅櫓の特色は、櫓の東北隅を欠いた特異な構造にあります。当時、東北の方位は禍を招く「鬼門」として忌み嫌われていたことから、これを除けるために隅を欠いたといわれています。こうした櫓は全国でも大変珍しく、日出城の他に類をみないといわれています。 明治四年(1871)、廃藩置県により日出藩が廃止されると、明治八年(1875)には本丸内の天守や櫓が競売に付せられ、次々と取り壊されていきました。しかし隅櫓はこれを免れ、山村羊太郎氏、南喜平氏を経て中村貢氏が所有し、大正十年(1921)に下仁王(現東仁王)へ移築され、平成二十年(2008)、中村家より日出町に寄付されました。 『日出城跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
日出城(暘谷城)にやってきました。ここはいつ壊れてもおかしくない朽ち果てた現存櫓(鬼門櫓)を見たくてずっと行きたかったお城だったのでした。しかしこの日目にした鬼門櫓は、まったく別モノになっていました。平成二十一年(2008)から城域内に移築され、保存修理が進められている真っ最中の同櫓は、一見普通の家が新築されているように見え、とても現存櫓が修復工事をされているように見えません(-_-;。もちろん文化財としての価値を損なわないよう丁寧に作業を進めておられるんだということは分っているのですが、見た目のインパクトはやっぱりねぇ・・。一応案内板には平成二十一年時点の移築前の様子が写真で載っていますので、現在とのギャップが凄まじいことが分ります。残念なのは移築された場所ですね。これではせっかくの鬼門櫓の役割を果たせていないんですよねえ。 櫓はそれぐらいにして本丸周辺の壕を堪能し、南側へと回り込んでみます。学校敷地内ですが、鐘楼の鐘が移築されています。この時鐘はかつては外大手門付近の土居に置かれ1日に12回時刻を知らせてきたそうですが、明治になって外大手門取り壊しの際に現在の本丸の裏門櫓跡に移されました。なんと現在も小学生が朝8時に鳴らしているそうですね。 そして校庭隅にある天守台です。下から見上げるとかなりの高さを誇っており、予想していた以上の満足感を得られます。苔むした石垣には流石というか、居るだけで十分な存在感がありますね。南側から天守台にあがりますと、海への眺望が素晴らしいです。ここの小学生はなんて贅沢な所で勉強しているのでしょうか。 そうそう、鬼門櫓で思い出しましたが、この城にはもう1つ関連する逸話が残されていました。昭和35年の城下海岸遊歩道工事の際に 本丸西南端から木棺が発見されました。岩盤をくりぬいた穴に入れられ石で蓋がなされた石棺は、そのまま石垣の基盤となっていたようです。そしてその中には大人の人骨が・・。そう、ちょうど裏鬼門にあたる方角に人柱をたてて、築城の無事を祈願したのでしょう。鬼門の方角である北東隅を落して鬼門除けを行っていることもそうですが、日出城は当時の人々の思いがよく伝わってくるお城だなと思います。 (『日出町探訪』日出町観光協会刊参照) それにしても・・つくづく残念なのは鬼門櫓の北東隅を撮影するのを忘れてたことです。逆光だから先に南側から・・と思っていたらそのままに(;_;)
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