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平野環濠跡


登城日:(2007.06.08)
所在地: 大阪市平野区平野宮町2丁目
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
杭全神社に建てられている平野環濠石碑 石碑が建っているのは当時の土居跡か?  平野に環濠が作られた時期について詳細は不明であるが、周辺の村落も戦乱を回避すべく濠を掘って自らで身を守る記録が15世紀後半に残っていたことから同様の時期に始まったのであろうと見られている。
 平野環濠は七つの町を一郭として形成されており、その規模は堺に次ぐものとなっている。内側から土居、そしてその外に濠、さらに土居があり最後に濠があるという二重濠構造となっていた。外部との出入り口は十三口あり、明治十二年(1879)まで存続していた。
 戦国期には三好氏の陣営とされたり、織田信長の行軍にさらされたりと幾多の戦乱に見舞われた。また「平野由緒書」には遠見櫓があったことも見られる。
 その後天正十一年(1583)、豊臣秀吉が蔵入地として平野の豪族末吉勘兵衛に知行を与えるも、慶長年間には高台院領となり、さらに慶長十九年(1614)の大坂冬の陣では東軍の支配下となり、秀忠の陣所となった。
 さらに翌年の夏の陣では後藤基次が陣営としたり、藤堂隊により焼き討ちがあるなどめまぐるしく激闘の渦中に置かれたのである。
 江戸時代には幕府直轄地時代のほか、川越藩、高崎藩、古河藩などがその領地とした。

『日本城郭体系12』新人物往来社刊参照

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資料
 

私見
杭全神社の外には濠跡が  JR関西本線「平野」駅を南に降り、スーパー横を通り杭全神社へと向かいます。神社の境内に土塁跡らしい高まりとその上に平野環濠を示す石碑が建てられています。かつて広大な規模を誇っていた平野環濠も現在はこの一帯に残っているだけなんですね。あたりは静かな時間が流れています。かつての激戦はもう遠い昔のことなんです。
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