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別名大饗城(おあい)ともいう。大饗の地名は称徳天皇の頃、(約千二百四十年前)丹比行宮の饗宴場であったことに起因すると伝えられる。城岸寺城は南北朝の頃、楠公の一族である和田和泉守が城ヶ峯と称する周囲濠をめぐらした要害の地に城塞を築いたとされており、現在この濠は昭和五十六年に埋め立てられ、城岸寺公園、児童館が設置された。
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和田氏は楠左衛門尉成康の次男、太郎親遠から始まり河内から泉州和田村に居城を構え和田氏を名乗った。(現在の
岸和田城)その子、四郎高遠、その孫、正遠(正成の甥)その子孫、高家、正武等が城岸寺城に居を構えた。正平七年和田助氏の軍忠状(自分の手柄を記した書状)に大饗城の名が見えることは大阪府史、狭山町史に記載されている。その後、元享年間に融通念仏宗、中興の祖、法明上人が河内の国、念仏勧進の際、病気平癒のため、当城岸寺を建立し、現在当寺に伝わる通称「たくまはん」と呼ばれる阿弥陀如来来迎図があり信仰を集めている。「たくまはん」はその昔、一世を風靡した狩野派、巨勢派(巨勢の金岡は金岡神社の祭神)と並び称せられた宅磨派、宅磨法眼良賀の作といわれている。昭和五十六年に現在の本堂が建立された時、発掘調査が行われ南北朝の頃と推測される建物跡が発見された。尚、境内植込の石臼は前の本堂建立の際に基礎石として、使用されていたものである。