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岸和田城跡
登城日:(1999.11.7)
所在地: 岸和田市岸城町9番1号
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
内堀と犬走り  建武年間(1334〜36)頃、楠木正成の代官として当地に来た和田高家が、今の野田町あたりに築いたのが岸和田城のはじまりといわれています。その後、和泉守護細川氏や守護代三好氏・松浦氏などが居城とし、その間に現在地に移されましたが、そのころはまだ天守閣もなく、館の周囲に掘や土塁をめぐらせた程度の城館であったようです。
 天正十三(1585)年、豊臣秀吉は甥の小出秀政を岸和田城主とし、秀政は城郭整備にかかり、天守閣もこの時に築かれました。豊臣氏滅亡後、松平(松井)氏三代を経て、寛永十七(1640)年、摂津高槻から岡部宣勝が入城し、以後、明治維新まで岡部氏が十三代にわたって岸和田藩五万三千石を治めました。
 この間、文政十(1827)年、落雷によって天守閣は焼失し、以後長らく再建されませんでしたが、昭和二十九年、鉄筋コンクリート造りで三層の天守閣が再建され、また昭和四十四年には城壁と櫓が再建されました。現在、天守閣と櫓を市立郷土資料館とし、岡部家の遺品の他、武具や郷土ゆかりの民具、古文書、美術品などの展示を行っております。

『岸和田城パンフレット』より


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資料    年表
永享 3 1431 山名氏清、和泉守護となり、信濃泰義を岸和田城におく。この時、現在の場所に移る。
応永15 1408 細川頼長、和泉半国守護に補せられ、岸和田城を居城とする。以後7代岸和田細川という。
天文17 1548 三好長慶、細川晴元の所領を奪い、弟2人、安宅冬康、十河一存を岸和田城に置く。
永録 5 1562 久米田合戦で三好勢が敗れ、この後、松浦肥前守・寺田又右衛門・松浦安太夫ら城を占拠する。
永録11 1568 信長の上洛にともない、和泉国衆も信長の旗下に属す。岸和田城番として、寺田又右衛門・松浦安太夫・堀久太郎・桑山修理らが続く。
天正11 1583 秀吉、家臣中村一氏を岸和田城主として、根来・雑賀のおさえとする。また、このころ大阪城築城がはじまる。
天正12 1584 岸和田合戦起る。
天正13 1585 秀吉、根来・雑賀攻めの為、岸和田に入城。その後、中村一氏を近江水口へ転封し小出秀政を四千石でおく。
天正15 1587 秀政に六千石扶助され、一万石となる。
文禄 4 1595 秀政、三万石の大名となる。このころ天守の造営がはじまる。
慶長 9 1604 秀政没し、長子吉政襲封。
慶長18 1613 吉政没し、長子吉英襲封。五万石に増封。
元和 5 1619 吉英、但馬出石に移封し、以後丹波篠山から松平康重が入封。
元和 9 1623 大々的な整備がはじまり、この時に三層の櫓が完成する。
寛永 8 1631 松平康重、1万加増となり、六万石となる。
寛永17 1640 康重没す。その子康映襲封。康映、播磨山崎に転封。これより岡部宣勝、高槻より六万石で入封。
寛文元年 1661 岡部元隆、襲封にあたり、弟高成に五千石、同豊明に二千石を分知する。以後、岸和田藩は五万三千石で明治まで続く。
文政10 1827 11月20日、天守閣雷火にて焼失。
明治 2 1869 岡部長職、版籍奉還しこれにて岡部氏13代の治世が終わる。
昭和 5 1930 本丸・二の丸などが千亀利公園に指定され、本丸の堀と回遊路と橋が架けられた。
昭和18 1943 岸和田城跡、府の指定史跡となる。
昭和29 1954 天守閣復興。
昭和44 1969 城壁と角櫓が造られる。
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私見
 久々に大坂の城です。今日はほかにもいくつか城跡や陣屋跡をまわったのですがほとんど分かりませんでした。その点、この岸和田城はいいですね。復元天守は鉄筋ですが、堀や石垣が見事に残っています。
 府道堺阪南線沿いにある市立駐車場に車を入れ(2時間まで200円、しまったぁ、路駐できたのにぃ・・(^_^;)、奥にある階段をあがるとそびえる三層の天守閣が見えてきます。深い内堀と見事な石垣が印象的ですね。そしてその石垣と内堀の間には犬走りがついています。外敵の侵入を助ける犬走りの存在は、堀と石垣が見事であればあるほど奇妙です。ぐるっと一回り堀沿いに歩いてみますと、石垣が異なった時代に積まれていることがよくわかりました。荒々しい自然石が目立つ南側は天正年間の小出氏によるものでしょうし、整然と人工石が積まれた部分は、十七世紀の岡部氏によるものなんでしょう。
石垣の製造年代が違うようですね。  次に、本丸へ入ってみます。黒塗りの多聞櫓となった城門を抜け、すぐに左右へ道が分岐しています。現在は右手が郷土資料館となっており、天守へは左手の道を進みます。
 石段をあがると、すぐに目の前に不思議なたたずまいの庭が目にはいってきました。なんでも「八陣の庭」というそうで、中国の三国時代に活躍した諸葛孔明の用いた八陣法をテーマにしているそうです。いつの時代にこの庭がつくられたのかわかりませんでしたが、作者の重森三玲氏は何を思って作ったのでしょうねぇ。もはや、防禦の為の機能という観点からは完全にはずれていますからおそらく近代に設計されたのでしょうね。私にはこの庭の意味がよくわかりません。
 そして一番奥には、小天守と大天守とが並んで建っています。私は岸和田城がこんなに立派だったとはまったく予想をしてませんでした。天守の中には入りませんでしたが、十分に満足です。駐車場に戻り、資料館でもらった縄張り図を広げながら在りし日の岸和田城を考えていると、周りに点在する寺が気になりました。どうも戦の際にはこれらの寺は出城と化すのでしょうね。  最後に、忘れていましたがこの岸和田城は数少ない海城であったんでした。今はすっかり海岸線も引いてしまい、その跡形はないですがそういえば同じ海城である、今治城も似たような犬走りがあったような気がします。ま、関係ないでしょうね。
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