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篠山城

篠山城跡


登城日:(00.04.11→07.06.23→2012.01.07)
所在地: 篠山市北新町
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
復元された内堀と、鬼門除けの石垣 復元された篠山城大書院  篠山城は、慶長14年(1609)天下普請の城として、征夷大将軍となった徳川家康が、近畿・中国・四国の十五ヶ国、二十大名に夫役を命じた。普請奉行には池田輝政、縄張り奉行には藤堂高虎を任命し、京都から山陰、山陽へ通じる要衝の地を守る為、城主には家康の庶子である、松平康重が置かれた。
 篠山城は比高15メートルの小山を利用した平山城で、縄張り形式は方形で、天守台・殿守丸・二の丸が梯郭式で、それを囲む三の丸は輪郭式である。三の丸の濠は東西南北約400メートル、幅が約40メートル。三の丸の大手・東・南の三門は土橋で外濠を渡り、そこに角馬出しがついていた。とくに南馬出しは土塁で現在もよく残っている。

 篠山城本丸跡
ここは、篠山城の最期の砦となる本丸跡です。築城当初は現在の二の丸が本丸、現在の本丸は南東の隅に、天守台が造られたことから、特に殿守丸と呼ばれていました。
天守台の大きさは東西約十九メートル、南北約二十メートル、約三百八十uの広さがあります。天守台石垣は本丸内側からの高さ、約四メートル、外側の南と東側犬走りからの高さ約十七メートルで、篠山城で最も高い石垣です。 天守閣は築城の時に建築が中止され、代わって天守台南東隅に二間四方(四メートル四方)の一重の隅櫓が建てられました。
本丸の周囲は天守台と南西隅・北西隅・北東隅の三ヶ所に二重の隅櫓を建て、間を多聞櫓でつないで内部を囲んでいました。二の丸には大書院をはじめとする御殿が建てられたのに対して、本丸には御殿等の建物はなかったようです。
本丸内の北側中央にある一の井戸は岩盤を掘り抜いたもので、深さ約十六メートル(内水深八メートル)で、掘るのに二年もかかったと伝えられています。

 大書院跡について
2000年4月時の大書院。
篠山城大書院は二の丸跡に所在した城主居館の中で、とくに歴代城主による公式行事に使用された場所で、正規の書院造の建物となっていました。
この建物は慶長十四年(1609)の徳川幕府の天下普請による篠山城築城時に、京都二条城の御殿を参考にして建てられたと伝えられ、大きさは東西二十八メートル、南北二十六メートルの篠山城最大の規模となっていました。内部には上段の間、孔雀の間などの多くの部屋があり、障壁画で飾られていたと考えられます。
廃城後もこれだけ残されましたが、昭和十九年の失火により失われました。その後、焼失から五十六年たった平成十二年三月大書院の威容が大書院跡地に蘇りました。

  在りし日の篠山城模型  篠山城の大書院内部  南側に用意されている埋め門 西側から見た篠山城大書院

『篠山城跡案内板』より

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資料 【地図を表示する】
 
 年表:城主一覧
城 主 入封年月出封年月
松平康重 慶長14年 9月(1609) 元和 5年 7月
松平信吉 元和 5年10月(1619)元和 6年 8月
松平忠国 元和 6年 8月(1620) 慶安 2年 7月
松平康信 慶安 2年 7月(1649)寛文 9年 9月
松平典信 寛文 9年 9月(1669) 寛文12年11月
松平信利 寛文13年 1月(1673)延宝 4年11月
松平信庸 延宝 5年 2月(1677) 享保 2年 5月
松平信岑 享保 2年 6月(1717)寛延 1年 8月
青山忠朝 寛延 1年 8月(1747) 宝暦10年 7月
青山忠高 宝暦10年 9月(1760)天明 1年 6月
青山忠講 天明 1年 6月(1781) 天明 5年 7月
青山忠裕 天明 5年 9月(1785)天保 6年閏7月
青山忠良 天保 6年閏7月(1835) 文久 2年 2月
青山忠敏 文久 2年 2月(1862)明治 2年 6月

私見
篠山城天守台 訪れること3度目です。ようやく本丸跡まで入ることができました。それに天気にも恵まれてます。これもはじめてです。写真撮るのも気持ちいいですね。しかも桜のシーズンだから絶好の機会です。ただおばさんらが弁当を広げて景観を損ねているところもあり、ちょっと残念でしたが・・・
大書院も奇麗でいいんですが、奇麗すぎてまわりの石垣と全然雰囲気が違ってます。ま、当たり前ですが、なんとかならないもんなんでしょうかねぇ・・

 大書院もすっかり落ち着いた感があります。今回は日本100名城のスタンプラリーのついでに篠山城に寄ってみました。駐車場に車を置いて(有料化されてるんですね、300円)、そこから折りたたみ自転車を下ろします。篠山城は馬出しや外堀の姿を拝みながらゆっくりと外周を廻るのも醍醐味の1つだと思います。こういう時は自転車は最適ですね。
 南馬出しの土塁を満喫するとそのままそこから内堀へと続くルートをとります。高度差が大きいので三の丸内に入るまでに城内が見えないのが怖いなと感じました。この段差の工夫(?)も自転車でゆっくり廻れるからなんですねぇ。
篠山城本丸の高石垣 東の馬出しの現状  何度目の訪問かはすでに分らなくなっていますが、少しずつ整備されている篠山城では常に新たな発見や気づきがもらえて、新鮮で楽しい気分にさせてもらっています。雪のちらつくこの日は内堀の犬走りを歩きながら高石垣を見上げつつの散策でスタートしました。北側の廊下門脇を西へと進みます。刻印を見つけながら視線をそのまま右へとやってみると、石垣の中に縦に一本のラインが走っているのがわかります。どこかのタイミングであとから石垣を継ぎ足したといった感じですが、元は隅石であったであろう箇所には算木積みが見られませんので築造途中の手違いか何かで時期の差はなく、すぐに修正したといったところなのでしょうか。そういうケースが確か鳥取城盛岡城にも見られるんでしたっけね。ちょうど中門と鉄門との間に位置する多聞櫓がその上に建っていたところです。今まで石垣をじっくり見て回らなかったんだなと改めて実感しました。
 それにしても随分幅の広い犬走りですよね。ここまで広くする防御上の目的は何だろうか?と思いますが、そんなことよりも築城工事の効率を最優先した結果なのでしょうね。諸大名が分担をして築城した天下普請である篠山城の大きな特徴の一つであると言えます。また天下普請の城ならではの刻印が多く見られるのも石垣を見ていて飽きなくさせてくれています。その数約150種類と言われ、大阪や名古屋に次ぐ数なのだとか。そこまでのものだとはおそらくご存じな方は少ないのではないでしょうか。現在は石垣端には花壇が造られ、あまり石垣に近づけないのですが、これは石垣の崩落事故を防ぐために景観を壊さないよう施された配慮であるのかもしれません。実際に危なそうなところがありますので、石垣観察をされる場合は充分ご注意ください。
北堀と東堀との水位の差にびっくり 三左之内の刻印 金照寺山門となっている移築門  ところで三の丸は相変わらずだだっ広いですね。かつては家老屋敷があった場所も今はとっても寂しい状態です。本丸南側も少しずつ綺麗にはなってきていますが、うまく活用できればなと思います。今の状態でも埋門の辺りは外から見ると見栄えがしますが、南廊下門へと続く枡形の雰囲気が出れば上からの景色が最高なんですけどね。
 ま、ないものねだりばっかり言っても仕方ありません。埋門の傍まであがっていきますと、刻印の説明があります。「☆」の刻印もありますが、ここは「三左之内」の刻印でしょう。築城時の普請総奉行を務めた池田三左衛門輝政の名を刻んだものであると言われています。この刻印はよく紹介されていますので有名ですね。
 そして天守台下にまわってきました。ここは往時でも一番広い犬走りとなっていたのですが、やはりそれだけ高く石垣を積む作業が大変だったのでしょう。根石を堅固なものにするために十分な地固めをとられたのでしょうかねぇ。まだ整備事業は続いている様子です。また今度来る頃にはどういう姿を見せてくれるのか楽しみにしていようと思います。
 そういえば篠山城の移築門が、市内の金照寺山門として残されています。現地には案内板がないので心許ないのですが、移築門巡りもお城めぐりの一環として楽しんでください。またランチはお城の北側にある大正ロマン館内のろまん亭はいかがでしょう。ここでは運ばれてくる料理のプレートの上に紙が敷かれているのですが、それが篠山城の絵図になっています。私は食べる前にそっと外して記念に頂きました。
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