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出石城跡
登城日:(2003.09.07)
所在地: 出石郡出石町
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
復元された登城門。 復元された隅櫓。 出石城は慶長九年(1604)に小出吉秀によって山頂の城を廃して築かれたもので一国一城制による但馬唯一の城です。
平山城に分類され梯郭式といわれるように有子山の麓に上から稲荷郭、本丸、二の丸、二の丸下の櫓、三の丸と梯子を立てかけたように城を築いています。また東には山里郭を設けて有事に備え、三の丸の周囲には山から堀り切りで水を引き、内堀をめぐらせ北に大手門、東西にもそれぞれ東門、西門を設け天守閣は築きませんでしたが隅櫓や多門を設けて要害としました。
城主は小出氏が九代、松平氏一代、仙石氏七代と続き、明治の版籍奉還まで二百七十年間、五万八千石の本城として、また但馬第一の雄藩として威容を誇りました。
最上壇の稲荷郭には城の鎮守稲荷神社を祠り本丸、二の丸には広大な御殿を建て渡り廊下で連結させていました。また本丸には仙石公の藩祖、仙石権兵衛秀久を祠る感応殿や、昭和四十三年に復元した東西隅櫓があり、往時の面影を偲ばせてくれます。

◆感応殿
この社殿は感応殿といい、出石藩主仙石氏の祖権兵衛秀久公をまつっています。公は美濃の人で、豊臣秀吉に仕えて功があり洲本、高松の城主となり一時勘気を受けて浪人しましたが、小田原攻めで奮戦し小諸城主に返り咲きました。その豪勇のほどは大盗賊石川五右衛門を捉えた豪傑として伝説化されています。仙石氏は、公のあと子の忠政が信州上田に移り玄孫政明が宝永三年(1706)に出石に移封されて五万八千石を領し以来、廃藩まで七代百六十三年間続きました。明治に入って旧家臣らによって本丸跡に公をまつる感応殿が建立され今日に至っています。以後町の人々は本丸を権兵衛さん、又は円覚さん(法名円覚院殿)と愛称をもって呼び、例祭は五月六日に行われています。

『出石城跡案内板』より

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資料
 

私見
石垣からせり出している隅櫓 三の丸御殿跡。 出石は結構好きな町です。こじんまりとした中にそこそこ落ち着く雰囲気も出していますし、結構賑わいもあります。この日は有子山城此隅城などとセットで訪れてみました。観光バスが何台もくるようになってるんですね。ちょっと意外でした。関東からこられた方としゃべる機会があったのですがその人に「川越と似てるね」と言われ、なるほどと納得してしまいました。
 さて、今回は有子山城、此隅山城とセットで出石攻めを敢行しています。結構ハードな1日となりそうです。その中でも観光の目玉としてよく写真に使われているのがこの出石城跡です。
 復元櫓と高い石垣、そして城下町の雰囲気が色濃く残るトータルな魅力が実によく観光客のハートをわしづかみしていると言えます。私は復元櫓が見える蕎麦屋さんでお昼を頂きながら地ビールを飲んでいましたがいやぁ最高でした(笑)。
 なんだか年々出石がより観光地化していってるように思えますが、それに伴い変に城跡がなっていかないことを祈るばかりです。
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