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交野城跡
登城日:(2003.08.23)
所在地: 交野市私部
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
郭跡が見事に残っています。  交野城は南北朝の時代に南朝方の安見清儀により築城されたと言われている。
 が、やがて北朝方となった安見氏は河内守護畠山氏の重臣となり、遊佐・木沢氏ともども河内守護代となったこともあった。
 清儀の九代後の直政の代には畠山氏を軽んじ、自らを河内守護と称するほどの専横を極めていく。そうした安見氏に対抗せんと立ち上がったのが三好長慶である。当時高屋城に籠っていた安政は難を逃れ、飯盛山城に拠ったが、ここも三好勢に攻められ、大和へ逐電する。
 永禄十二年(1569)織田信長による河内統一後、北河内を三好義継に、南河内を畠山昭高にと分与せられ、結果畠山氏の家臣であった安見氏も所領を回復し、交野城に戻ることができた。
 永禄十三年、三好三人衆が篭る野田城とを織田信長が攻めたころに、直政は城内で病没。やがて筒井氏に攻められ、城はあっけなく落城した。後に、天正三年(1575)信長の命により廃城となった。

『日本城郭体系12』新人物往来社刊参照

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資料
 

私見
郭跡が見事に残っています。  別名私部城とも称される交野城は、交野市役所よりやや北方に位置する。市役所北東方面すぐに城域内となるんですが、比較的その姿をよく確認できるのが本郭跡とされている郭を中心とするいくつかの郭群ですね。
 田圃の中に高さ2〜3メートル程度の郭がその形状をよく残しており、本郭西側の畑となっている窪地はかつての堀跡を偲ばせてくれます。こんなに見事に中世平城の遺構が残っているのは府内では珍しいんじゃないでしょうか。あちこちと宅地地域と入り組んでしまっている部分もありますが、もっと大事に整備していっていただきたいです。
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