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郡山城跡 登城日:(2003.04.03) 所在地: 茨木市郡山1丁目 |
歴史 |
「郡氏由緒書」によれば、高利平太夫(郡兵太夫)は、摂津国高槻城主和田伊賀守につかえ、この国立浪速少年院辺りにあった郡山城にいて、近郷七か村を支配していたといわれています。
元亀二年(1571)八月、茨木・伊丹両氏と池田氏との対立が茨木方の和田惟政と主君池田勝正を追出した荒木村重・中川瀬兵衛ら池田二十一人衆との対立となり、白井河原をはさんで合戦をした。 このとき和田惟政軍五百余騎、池田勢二千五百余騎と多勢に無勢であり、和田軍の部下の高利平太夫(郡兵太夫)が一人で池田軍に行き、「主君は将軍からの急な呼び出しがあって京都に赴いているので、その帰りを待ってから戦闘を始めたい」と申し入れ時間かせぎをしたが、計略をみやぶられて戦闘は始められました。帰陣した平太夫は主君惟政に「この軍勢では勝ち目がないので一旦退却してはどうでしょう。時に応じて軍を進めたり 退いたりするのが名将ですよ」と進言したが聞き入れられず、やむなく名馬「金屋黒」にまたがって、縦横無尽に戦ったが奮戦むなしく戦死したという。 ここに置かれている石は、城の石垣に使用されたと思われる石で、三ツ鱗・三ツ星印が刻まれています。 またここから約三百メートル西に行った、大阪府茨木郡山住宅B9棟の辺りに「城の内」「門口」など、城の位置を示す地名が残っています。 『郡山城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
浪速少年院前に城址碑と案内板という茨木市教育委員会が城跡を示すお決まりのセットと、ひときわ目立つ大きな石が転がっています。この石はかつての石垣だったということみたいですが、なんで1つだけ残ってるのか不思議です。
また、案内板文中の言葉が口語体というのもなんだか不似合いで笑えますね。
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