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天保山台場跡


登城日:(2006.02.04)
所在地: 大阪市港区築港3丁目
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
とりあえず天保山山頂を征服 天保山公園内にある天保山跡碑 ◆号砲
 この大砲は、全長348メートル、砲口の内径20センチ、外径40センチ先込め式の旧式砲で、材質は青銅の一種とみられる。
 1864年、幕府の命令により、美作津山藩(岡山県津山市)の鋳工・百済清次郎らが製造し、大坂天保山砲台の備砲として据え付けられ、明治維新後、大阪城内に移されたものと伝える。

 アメリカのペリーが黒船で浦賀に来航して開港をせまったのが嘉永六年(1853)、翌年にはロシアのプチャーチン提督のディアナ号が大阪湾に入り、天保山沖に停泊しました。これを受けて幕府は俄かに沿岸地域に台場、砲台を築造するようになる。大阪湾では安治川、木津川口、堺などに台場を配したが、天保山には山を切り崩して台場を築かれた。
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資料
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私見
天保山灯台 大坂城内にある天保山台場にあった大砲  いろいろ調べているのですが天保山台場の詳細がいまいち掴めません。1864年築造開始という記載(「品川台場史考」)や1854年というのもあります。またその形状が星型の稜堡形式だったようなのですがどこかに絵図がないかなぁ・・という状態です。「幕末海防史の研究」ではそんなに立派な台場が築造されたような記述もないですし。・・

天保山台場往時の姿  天保山は元々は江戸時代(天保の世)に安治川河口の土砂を積み上げて作られた人工の山でした。それがやがて桜や松などが植えられ、花見や舟遊びの場へとなっていったようです。当時は18メートルもの高さを有していたようですが、現在は4.5メートルの日本一低い山となっています。開発の手が激しく入った大阪湾で当時の面影を探すのは困難ですが、いつの頃のものか不明ですが天保山に備砲として設置されていた大砲が大坂城天守閣前に置かれていました。これだけを撮影するのにお金を払うのが悔しいですが(笑)、観光に来ている子供達がひっきりなしに大砲の上にまたがっていたのには困りました。
 『大阪の歴史と文化財第9号』(大阪市教育委員会)で見つけました。空中写真の上にトレースして当時の台場を置いてみました。格好いいなぁ。
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