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須古城跡登城日:(2007.10.14) 所在地: 杵島郡白石町大字堤 |
歴史 |
戦国時代にはいると、我が郷土は、小城の千葉氏と高来の有馬氏にはさまれて、戦場と化すことが多かった。千葉氏は家来の平井氏を須古にとどめ、有馬氏に備えた。後、平井經則は、有馬に組し杵島の地を支配した。 平井氏は居城を高城(のち隆城ともいう)に定め、城濠を南、北共に百町牟田まで延長して、周囲をかこみ、大手口から搦手に通ずる城郭には、一間の土堤を巡らし、尚南には二重濠になった枳殻土手を築いて防備をかためた。 又、搦手以西の百町牟田を、浅瀬でも泥濘膝を没して渉ることができない地とし、これも利用した。 更に、西に杵島城、東に男島(小島)城を配備し、高城の両翼とした。 当時、九州の諸豪と相競いながら、勢力の拡張をはかっていた龍造寺隆信は、有馬氏に応じていた、須古高城の城主平井經則をうつことにした。 かくして永禄六年(1563)から天正に年(1574)にかけて、十二ヵ年の歳月を費やし、平井經則の居城高城を落城させることができた。 隆信は、五州二島(肥前、肥後、筑前、筑後、豊前、壱岐、対馬)の太守として君臨していたが、有馬攻めが意の如く進まないので急遽島原に出陣したが地形を利用した島津、有馬の計略にかかり、惨憺たる敗北を喫し、隆信は戦死した。時に天正十二年(1584)三月二十四日未の刻、行年五十六才であった。 隆信戦死後、舎弟龍造寺信周(須古鍋島家始祖・杵島神社祭神)は、須古城に入城、南・北外濠を埋め、百町牟田を排水し、溜池を築造して、良田百余町を開拓した。 右の地図は、安政三年(1856)につくられたもので、往年の城郭の構造をそのまま見ることはできないが、この須古城は、北及び東の第一防衛線に六角川と有明海があり、西と南には杵島山を背にして百町牟田があり、将に周辺の自然をうまく利用した鎮西の要害であった。 『須古城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
地図上の須古小学校を目印に行くと平坦な田園風景の中にこんもりとした独立丘陵が目に入ってきます。標高42メートルの鬱蒼とした藪山を中心としたあたりが須古城跡でした。いったいどこからとりつくのかなと車を一回りさせてみると、小学校の校庭からつづら折れの登城道があるのが見えます。これって・・・こっそり入れないケースですね?(当たり前ですが) ってことで丘陵上に上がることは諦めましたが、校門脇に立派な案内板と周辺の地図が載っています。ここで初めてしった支城(杵島城、小島城)もあわせてチェックすることにします。 案内板にあるように小学校の周囲はかつての堀跡らしき面影が今もなお残されています。要害とまでは感じられませんが、意外と立派な構造だったようだということはわかりますね。
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