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太尾山城

太尾山城跡


登城日:(2005.11.27)
所在地: 米原市西円寺
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
太尾山城によく残る堀切 太尾山城から米原市街を見下ろす  太尾山城の築城年代は明確ではありませんが、『近江国坂田郡志』によると、地元の土豪米原氏が築いたと記しています。『妙意物語』によると、文明三年(1471)に美濃守護代斉藤妙椿と米原山で合戦のあったことが記されており、この頃築かれたものと考えられます。戦国時代には湖南の守護六角氏方の城となっていたようで、天文二十一年(1552)には京極高広が太尾山城の攻略を今井氏に命じますが失敗に終わっています。永禄四年(1561)には浅井長政によって攻略され、長政は浅井郡の土豪中嶋宗左衛門を城番に入れ置きます。元亀二年(1571)、織田信長によって佐和山城が攻められると宗左衛門も太尾山城から退き、以後廃城となりました。
 太尾山城は北城部分と南城部分の2つの城郭から構成されています。ここ北城跡は標高254.3メートルの山頂に築かれています。その構造は北辺に土塁を巡らせた主郭と南方の3段の曲輪からなり、その先端は堀切りによって尾根筋を切断しています。また、主郭北側の急斜面直下に位置する土塁に囲まれた小曲輪からは敷地全域を総柱とした礎石建物が検出されており、櫓もしくは倉庫であったと考えられます。この礎石建物からは土師器皿をはじめ、中国製の青花と呼ばれる染付け磁器、白磁などが出土しており、16世紀後半に築かれたものであることがわかりました。
 なお、「大原観音寺文書」には「太尾門矢蔵之用、上野より材木三本召寄候」とあり、検出された建物には伊吹の上野の材木が用いられていたようです。
太尾山城の郭部 ◆太尾山城 南城跡
 太尾山城の南城跡は標高242.4メートルの山頂に築かれています。方形の主郭を中心に尾根筋を階段状に削平して曲輪を配し、南北端の尾根筋には巨大な堀切りを設けています。発掘調査の結果、主郭の中心に設けられた方形の土壇上からは、ニ間x三間の礎石建物が検出され櫓台だったようです。また、主郭からは四間x四間以上の礎石建物が検出されました。この礎石建物からは多くの土師器皿や擂鉢、中国製白磁皿などが出土しており、恒常的な居住施設が山上に設けられたことが判明しました。

『太尾山城跡案内板』より

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資料
 

私見
太尾山城の多重堀切 土塁が囲む太尾山城の郭  太尾山城はJR東海道線「米原」駅の東側正面の山上にありました。駅を出てそのまま突き当たりの青岸寺横の駐車スペースに車を停め、城の案内板を見ながら登城道をあがっていきます。太尾山城は南北2つの城から構成していますが、まずは北城から攻めるルートです。
 登城道は歩きやすく整備されています。とは言えそこそこ急なところもあり朝一の山城攻めとしてはちょっとばてそうです(実は前日飲み過ぎたせいですが(^^;;・・)。遠く琵琶湖までの眺望がひらけるようになると気分も爽快ですね。
 遺構の説明は案内板に分りやすい文章が載っていましたので割愛いたします。太尾山城は一城別郭(別城一郭?)の好例だと思いますが、北城と南城との間はほぼ並行移動で自然地形が残る状態です。境目の城ということでかなり重要な役割を期待されていたんでしょうが、北城と南城との間はもっと堀切をつくらなくてもいいのかな?と思いました。しかしいずれも土塁で囲われた厳重な構えと深くえぐられたような堀切は、今もその地に立つと身の引き締まる思いがしますよ。
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