日野城跡 登城日:(1999.06.28) 所在地: 蒲生郡日野町 |
歴史 |
地名中野の地に築城されたので地元では中野城と称したが歴史的には日野城という。天文三年(1530)蒲生氏郷の祖父蒲生定秀が築城、縦8丁横6丁の構大な郭内に武士を住まわせ、西に続く原野に現在の日野の市街地を城下町として設けた。蒲生氏郷の伊勢松が島移封後の慶長二年(1597)に廃城となり畑地に変った。江戸初期市橋氏がこの城址に仁正寺藩の陣屋を設けて遺構などを庭園等に利用、現在城址の僅か一端が残された。 日本史上で日野城と呼ばれるこの城は日野では古くから中野城と称しており、鎌倉時代の初期から約四百年間における日野の領主蒲生家六万石の最期の本城であった。 東方音羽の城山に蒲生家の音羽城があった。文亀大永の頃(1501〜1523)にこの地に砦が作られたのが始めであり、後蒲生定秀が当主の頃天文二年(1533)から三年にかけて本格的に築城され同時にこの城の西側一帯の荒野に町割りをして日野の城下町をつくった。 定秀の孫に当たる蒲生氏郷はこの城で弘治二年(1556)に生まれた。氏郷二十六歳の天正十年本能寺の変で織田信長が憤死した時安土城にいた信長の妻妾一族をこの城へ迎え入れ明智光秀の軍を迎え撃とうとしたことは有名である。 天正十二年豊臣秀吉の命によって蒲生氏郷が伊勢松ヶ島へ国替えとなり、五十二年間にわたる中野城と城下町繁栄の歴史は幕を閉じた。その後氏郷は松阪城十二万石城主から天正十八年会津黒川城四十二万石に移封され、黒川を若松と改め九十二万七千石の大名となったが、文禄四年四十歳の若さで京都邸において病没した。 徳川時代に入って天和六年(1620)市橋長政が中野城址へ仁正寺藩一万八千石の陣屋を構え明治維新までの藩主となった。昭和四十年日野川ダムの造成によって土塁などはこわされたが本丸と堀の一部が残され、現在では涼橋神社と稲荷神社の石垣にその名残を留めている。地名を古城という。 『日野城跡案内』より
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資料 |
年表: ◇蒲生家略系図 貞秀−秀行−秀紀 | −高郷−定秀−賢秀−氏郷−秀行−忠郷 | −忠知 |
私見 |
日野城(中野城)のある蒲生郡日野町は史跡を大事にする自治体のようですね。堀や石垣、本丸跡がしっかり残っています。ダムの造成で大部分壊されたようですが、往時の雰囲気は十分残っています。 本丸跡のすぐ奥には西大路藩の陣屋跡がありました。ほんと史跡の扱いって自治体によって全然違いますね。日野町を見習えよな。>○○市。
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