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三田村城跡
登城日:(2004.01.28)
所在地: 東浅井郡浅井町三田、伝正寺
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
伝正寺を囲む土塁  当城の城主とされる三田村左衛門は今井定清と縁戚関係にあったと「嶋記録」にあり、元亀元年織田信長が攻めて来た時は横山城の城守を務めていたと「信長公記」にみえる。姉川合戦後は小谷城中ノ丸に篭っていたが、同三年八月二十七日秀吉を通じて降参したものの討伐されたと「総見記」は伝えており、姉川合戦によって当城は廃墟と化し、打ち首になった三田村一族を含む七十七名が七十士と称する通称西三昧の地に葬られたと伝えている。なお、伝正寺は三田村城の本丸的な存在であったと考えられ、朝倉景健が本陣を当寺に置いた可能性は強く、「佐々木南北諸士帳」には三田村左衛門大夫氏光、同相模守、多賀備中守が居住したと伝える。

『三田村城跡案内板』より

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資料
 

私見
伝正寺を囲む土塁  少し住宅地が入り組んだ中にある伝正寺を見つけるのはちょっと大変かも、と思っていましたが予想に反して簡単に見つけることができました。というか伝正寺を見つけたというよりは、土塁が目に飛び込んできたんです。
 現在の伝正寺の周囲をぐるりと土塁が方形状に囲んでおり、高いところで2メートル近くあります。かなりのインパクトです。
 また、土塁の内側南西部には三田村氏をまつった石碑が置かれていました。
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