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小谷城跡登城日:(2010.04.03) 所在地: 長浜市湖北町伊部、須賀谷等 |
歴史 | ![]() ![]() 築城したのは亮政であるとされるが、詳しい築城年代には説が分かれる。大永三年(1523)に近江守護である京極氏の内紛に乗じて京極家内の重臣上坂信光を失脚させた後であろうと考えられている。以後ここに亮政、久政、長政の浅井氏三代の居城として隆盛を誇ることとなる。 長政の代で織田家と姻戚関係となるが、元亀元年(1570)四月、信長が朝倉氏を討とうとした際に寝返り、朝倉方についてしまう。その後再三にわたり信長と攻防を繰り返すも、元亀3年(1572)ついに朝倉氏は滅亡。そして孤立無援となった小谷城に対し、信長の命を受けた羽柴秀吉らが長政のいる本丸と、久政のいる小丸との間にある京極丸を強襲し、城を分断するや久政、長政を自刃せしめ、小谷城は落城した。 落城後の小谷城は一旦秀吉が入城したが、秀吉は居城を今浜(長浜)に城を築くと、小谷城の建材を長浜城に解体して持ち去ったという。 『日本城郭体系』新人物往来社刊参照 ◆実宰院と昌安見久尼の由来 ![]() 小谷山に居城を構えた浅井の二代目久政の長女、阿久姫は仏道修行を志し、出家され昌安見久尼(しょうあんけんきゅうに)と申した。父、久政は当村庄屋平野左近助にたのみ状をつかわし、天文11年3月5日、当時無住と化していたこの庵を再興させた。 寺伝によると、ご本尊は宇多天皇のご持物観世音菩薩であり、尼の座像は豊臣秀吉の室、淀君の寄進のもので、ともに寺宝として衆人の拝むところである。また、長政とお市の方の間に生まれていた悲運の茶々、おはつ、おこうの三人の姫は、戦国の乱世この庵に匿まれ、また、浅井家終焉の際には尼自らが養育されるところとなった。 当時、村人は幼い姫たちの悲しみや寂しさを村の行事の中にお誘いし、分ち合ってなぐさめたと伝え聞いている。また、苔むす庭園は、室町時代の築造である。 ◆小谷城「脇門の扉」 ![]() おそらく落城以前に城楼改築がなされたそのおり、旧館の一部が須賀谷に譲与されたが、永い風雪のため館は朽ち門扉のみが残ったものと思われる。 須賀谷那須佐平衛太氏の家に永く保存されてきたが、大正の初期に旧田根村文化財保存会に移され今日に至ったものである。”夏草やつわものどもが夢の跡”当時日本一を誇った山城小谷城も今はたずねるすべもないが、この門扉こそおそらくお市の方をはじめ茶々、初姫らが馴染んだものの一つでなかろうか。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
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資料 |
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私見 | ![]() ![]() ![]() ![]() さらに車道を進むと数台が停められる駐車スペースが出てきます。そこから案内板のある場所まで進み、右手が本丸側、左手が金吾丸です。金吾丸は朝倉教景(宗滴)が来た時に作られたものだということですが、現状は他と比べて明らかに状態が悪く、遺構も時代が古いもののように感じます。 ![]() ![]() 小谷城で面白いと感じたのが人が多いなということです。大河ドラマが始まる前におさえておこうということなのか、浅井氏ファンなのか(実際お墓だけ写真に納めて帰っていく女性もいらっしゃってビックリ)、100名城のおかげか小谷城は完全にメジャーな観光地といってもいいんじゃないでしょうか。もう金吾丸に売店置いてもいいかもしれません(いや冗談ですので)。嬉しくなってくる一コマでした。 ![]() ![]() ついでに関連史跡を巡る時間があれば実宰院を訪れてみてください。長政のお姉さんが入寺していたところで、一時三姉妹を匿ったという伝承もある縁のお寺です。実はこのお寺の山門が小谷城の裏門だったという説があるのです。本当かどうかはわかりませんが、そういう話がある場所だということだけでも訪れる価値があるのではないでしょうか。また、浅井歴史民俗資料館には小谷城のジオラマや、小谷城脇門の門扉が現存し展示されています。案内板によれば落城前に改築された門扉が須賀谷に譲与されたものが今に伝わったということです。資料館の2階にあがると迫力たっぷりな展示にきっと驚かされると思いますよ。ほかにも家臣の屋敷跡めぐりとか姉川の合戦跡地めぐりなども考えると1日じゃとても回りきれませんね。また近々行こうと思います。
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