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長沢城

長沢城跡


登城日:(2007.11.18)
所在地: 米原市長沢
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
今も集落の中を流れている長沢城の堀跡 ◆長澤村と仲の川
 長澤村の始まりは、人皇五十六代清和天皇第四王子、貞保親王八代皇斉長澤太郎冠者土佐守義盛が保元の乱(1158)の賞により長澤領を受け、金子三千貫をかけ一町半四方の「長澤柵(構)」を築造、これが組頭以下侍二百五十人、馬五十頭を擁する「長澤城」となり、周囲を石積みで二重堀にした。「仲の川」を含め、当時は二間余りの幅を持つ内堀で四方を囲み、北国街道から内堀を反り橋(坂田神明宮に現存)で渡り惣門をくぐり、城や福田寺へ出入りした。
 こうした形で周辺を納めた長澤城主は、十七代約三百年間続いた。長澤城が出来て百八十年後、延元四年(1339)長浜の布施山から福田寺が移り、それから百三十年、長澤城と福田寺は共存してきたが、何が因かは定かではないが長澤城は閉城したと伝えられている。蓮如上人はこの前後、宝徳元年(1449)から延徳二年(1490)にかけていくたびか福田寺に滞在している。
 天文年中の長澤村の北国街道は、浅井氏や若宮氏の被官が在番し、通荷に関銭をかける関所となり茶屋が並んだ。同七年(1537)、浅井氏と六角氏の争いで六角氏の本陣が長澤村に置かれ、関と合せ江北の戦略上の要地となった。又、信長の寺社仏閣焼き討ちに抗し江北十か寺の先頭に立つ福田寺は、四千五百人の僧兵や民衆を組織して立ち向かうなど、僧兵や寺侍・念仏者などの民衆のエネルギーが集う場となるが、慶長二年(1597)秀吉の古城取り壊し布告により長澤城の残部も取り除かれ、慶長七年(1602)には家康の旗頭、内藤四郎左衛門正成の領地となった。
 南・北・西茶屋や弓を射る的場、米蔵の蔵、城寺を結ぶ辻・御成り道、陣屋跡の御陣屋、寺社・大門など、兵農分離が進んだ中世期の城下町や門前町を偲ばせる地名が今も残っている。
 「仲の川」は、長澤村八十戸の内七十五戸まで焼けた天和(1681)の大火災、天明(1783)の飢饉や大洪水など長澤村の全ての歴史を見つめ、その都度適切な役割を果たすとても切れない深い仲となりいつとなく誰となく「仲の川」と呼ぶようになった。近世での稲の運搬・農業用水など村人の生活に関わり続けたが、昭和の後期から平成初期(1990)の土地改良により水系が変わり、区民の生活用排水のみとなり1995年の改良工事に続き「郷つくり事業」で仲の川通りに修景事業が行われた。
 これを機に先人に感謝の気持ちと、ふるさと長澤村や仲の川の歴史を末長く伝えるために碑がたてられた。

◆福田寺(ふくでんじ)
 天武天皇の勅願によって、近江の名族息長宿称王が施主となり白鳳十二年(684)七月に建立したのが福田寺の起源と伝えられています。神功皇后、允恭天皇の皇后(大中姫)、敏建天皇の皇后(広姫)や継体天皇ゆかりの息長家の菩提寺として、その由緒を今日に伝えてきたのです。
 福田寺は、当初、その宗旨を三論・法相宗、さらに天台宗と変えてきましたが、覚如上人が、この地を訪れられたのを機会に当時の住持覚乗が浄土真宗に改宗されたのです。これは、真宗教団へ改宗した初めての寺院だと言われています。また、延徳年間には、三ヵ年にわたって真宗中無の祖である蓮如上人が滞在され、当時の住持になることを約束されているほどです(蓮如上人自筆の書が保存されています)。
 元亀・天正の法難(織田信長との戦い)には、住職覚芸は、福田寺門徒四千五百余人と湖国十ヶ寺の総統領として、同志二万数千人を指揮して、愛山護法の戦いをくりひろげられたのです。境内にある『殉教万人塚』は、当時の遺徳を偲んだものです。
 また、開国通商の推進者として名高い井伊直弼公と当時の住職三乗院摂専(本寛)連枝とは、従兄弟であり、同時に佛教信仰の上では師弟の関係にありました(直弼公より本寛師への八十余通の書翰が伝えられています)。因みに、本寛師の後室は、摂政関白右大臣二条斎敬公の邇q姫(かねこひめ)(明治天皇の皇后の従姉妹)であり、直弼公の仲人によって入輿されたのです。
 明治十一年、明治天皇は北陸行幸の途次、当寺に立ち寄られました。このとき、邇q姫が彦根城の保存をお願いされたと伝えられています。  境内には、室町末期の作である枯山水の名勝庭園があり、その石組は広く知られています。また石造美術として鎌倉時代に作られた後鳥羽天皇の供養塔や石燈籠が風格を見せています。建築物としては、鐘楼と名将浅井長政公が寄進された浅井御殿(県文化財)が室町末期から徳川初期の特徴を今日に伝えています。

『長沢城跡案内板』より

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資料
 

私見
長沢城そばにたつ福田寺  長澤城は地元の方につれて言っていただきましたので場所をうまく説明しづらいのですが、とりあえず長浜市との境に近い福田寺を目指していただければいいでしょう。堀跡を示す水路と石碑もありますので付近一帯に広がっていたお城だったのが感じられますでしょうか。ちょっとあやふやで申し訳ありませんが坂田郡誌(だったか?)に長澤屋敷址として紹介されていました。面積は三町五段二畝二十七歩九合と出ていますが、全然イメージできませんけどね(^^;。周囲を堀で囲まれ、中央に1本ズドンと中の川が走っています。居城していた人もかなり移り代わりがあったようで、始めは長澤義盛、長澤入道宗□(王偏に彖)等長澤氏の一族がおり、その後文明十八年に若宮藤六が知行を受け、当地を領有したようです。やがて京極氏の支族が、そして永禄・元亀期には田那部氏の一族の名もあがっています。
 よくわかりませんが近くに天文七年に浅井と六角が戦った際、六角が本陣とした跡も残っていますので、このあたりは戦略上重要な場所であったのかもしれません。しかし今は非常に静かで穏やかな印象を受けました。
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