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岡山城跡登城日:(2005.09.19) 所在地: 甲賀市水口町古城山 |
歴史 |
◆水口岡山城跡と阿迦之宮 眼下に野洲川を見下ろし、鈴鹿の山並みを眺望する大岡山は、低山ながらその特徴的な山容で、多くの人々に親しまれてきた。古くは行基が開いたとされる大岡寺も、その山内に大伽藍を構えていたとされる。 天正十三年(1585)、天下統一半ばにあた羽柴秀吉は、近江東南部一帯を見渡すことのできるこの山に、天守閣を備えた山城を築かせた。城は関が原の合戦により、わずか三代十五年で落城したが、この間、水口は城下町として道などが整備され、その後の発展の基礎が築かれた。 江戸時代に、この山は「古城山」と呼ばれるようになり、水口藩の御林山となった。享保年間には、大岡寺の寂堂法印が、地頭に移転させられていた諸堂を山麓に復興し、山頂に奥の院として小祠を祀った。これが阿迦之宮の起こりで、現祠は昭和四十一年に再建されたものである。 その後、阿迦之宮は古城山の守り神、水口町全町民の守り神として、あわせて、悲運の城主長束正家(三代城主)の霊を祀るようになった。現在も、毎年四月十七日に、この祠前で、法要と柴燈護摩が厳修されており本町観光シーズンの幕開けを告げる行事として、多くの参詣でにぎわう。 ◆水口岡山城跡 水口市街北側に、椀を伏せたような姿を見せる大岡山(古城山 標高282メートル)に築かれた豊臣期城郭の跡。 天正十三年(1585)、羽柴(豊臣)秀吉が、甲賀郡と蒲生郡の一部を支配させるため、家臣の中村一氏に命じて築かせた山城で、当時は水口城と呼ばれた。 天正十八年中村一氏の駿河転封の後には増田長盛が、文禄四年(1595)には長束正家と、五奉行の一員が城主にあてられていることは注目される。慶長五年(1600)の関が原合戦に際し、正家が西軍に同調したため、築城後池田長吉らに攻められ落城した。 江戸時代、寛永十一年(1634)の新しい水口城(将軍家御茶屋御殿)の築城に際し、石材を転用したと伝えられるが、これを裏付けるように、遺構は判然としないところが多く、石垣もわずかに残るのみである。 曲輪は山頂および中腹に配置されており、これを区画する堀切や竪堀の跡が認められる。山頂部に連続して配置される曲輪には一部に石垣が残り、その下部には長大な帯曲輪が存在する。 城のあった当時は、山頂部に高石垣を巡らし、瓦葺の諸建物が連立して周囲を威圧したと思われる。 なお、建物に葺かれた瓦の意匠には、安土城の瓦を起源とする、織田・豊臣系瓦の特色が見える。 わずか十五年の歴史ではあったが、山麓市街地はこの城下町として整備されたと考えられ、水口が近世以降甲賀郡の中心的地位を獲得したことに大きな影響を与えた。 『岡山城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
岡山城は水口町を見下ろせる位置にある比高100メートルの山城です。車で上がれるのでかなり楽ができてしまいました。とりあえず西よりの小さな公園となったところに車をとめ、そこから少し歩けばすぐに郭に到達できました。 公衆トイレがある平坦な地も郭なのかもしれませんが、その先は緩やかな段差を持つ比較的大きな郭が広がります。岡山城はそこから堀切で見事に分断された郭がいくつもつながって行く連郭式の山城です。両脇の堀切を見ながら土橋を越えて先を進みます。小さな丸太が横たわった階段をあがっていくことになっています。 先に見える上の段差こそこの岡山城の主郭とされるところなのですが、その手前の北側では一段下に帯曲輪があり、そこが「石垣見学コース」と掲げられた木製の門が作られた入り口になっているのには興ざめでした(^^;;。 とはいえもちろん石垣見学コースは参加します。斜面に今にも崩れ落ちそうな石垣を写真を撮影し、一気に主郭へ。実はもう1箇所すぐ先に石垣見学コースがありますのでそれもきっちりと撮影しておきました。 主郭の先は大きな横堀が綺麗に残っているのには驚きましたが、実はこの日はこれで帰ってしまいました(;_;)。あとで縄張り図を確認しますとまだ半分くらいしか見てなかったことや、主郭の南側の下には枡形虎口や喰違虎口など面白いところがあったなんて・・・。 ま、甲賀はまだまだ見るべきところを残していますからここはまた改めて攻めることにします。しかし・・・・石垣見学コースだけじゃなくてほかにもコースを用意してくれててもいいのになあ・・。と思ったりもする。
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