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神照寺城

神照寺城跡


登城日:(2010.03.07)
所在地: 長浜市新庄寺町、神照寺
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
神照寺の周囲に残る土塁  神照寺城は、その名の通り神照寺が城郭化したものである。鎌倉期には足利尊氏と直義との対面が、また室町期には京極氏の陣所であったり、浅井氏に属し姉川の合戦時に信長によって焼き討ちにあうといった実に多くの戦火を見てきた寺院であった。

◆神照寺の所在地
 神照寺は滋賀県長浜市新庄寺町にあり山号を日出山という。真言宗の寺であり、本尊に證空作の金剛界大日尊と春日明神霊刻の胎蔵界大日尊を、祀っている。
◆略歴
 寛平七年(895)第五十九代宇多天皇様の勅命により、益信僧正(本覚大師)様が、初代の住職となり、七堂伽藍の具わった古刹を建立したのがおこりである。のち、兵火天災等の為、一衰一興する。
 花園天皇様の御代に、足利義政が、堂舎を修補し、中興開基の實雄僧正と共に寺門を興隆し、法流神照寺流を創始する。(寺運の隆盛、三百余坊の堂舎。寺門盛観を極める)
 観応二年(1352)九月下旬、足利尊氏公と実弟直義との和解の為、11月2日浅井郡錦織興福寺にて兄弟対面ののち、神照寺に仮泊して帰る。(このとき尊氏公が境内に萩を植えたと伝わる。)
 貞治年間 住僧菩提坊隆信本堂を再建企画。新造するが、天災にて焼失
 康暦二年(1381)隆信本堂を再建(京都嵯峨天龍寺より、本尊を迎える)。入仏落慶は30年後(応永十七年二月五日)執行。
 大永三年(1523)京極氏の陣所となり兵火で山内が荒廃、焼失した。のちに、浅井氏が旧観通りに再建、天文年間(1533〜1554)に浅井氏が中心となり正月三日に新年茶会を催していた。
 元亀元年(1570)姉川の戦いによる兵火で焼失した。
 天正元年(1573)小谷城の落城と共に兵火に遭い一時衰退した。
 天正十一年(1583)秀吉公が天下を統一すると、安堵状を頂き伽藍の大改修を行った。
 徳川の時代に朱印状を賜った。天阿上人が京都の愛染寺より住職となり、寺運の興隆に尽くした。醍醐寺の末寺となる(真言宗醍醐派)。
 明治時代中ごろ智山派に転派して今に至る。かつては神照寺流という雅楽の吹奏があり、毎年3月15日の涅槃会に吹奏されていた。秋には萩咲き乱れる「萩の寺」として有名。

『神照寺案内板』より

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資料
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私見
秀吉によって再興された神照寺  神照寺城は、現在も神照寺がそこに建てられています。浅井氏攻めの際に焼失してしまった同寺ですが、のちに秀吉によって再興されました。現在は中村川が西面と北面を流れ、かつての堀跡を偲ぶことができます。寺の境内と東側の神社、住宅部がかつての城域(寺域?)だったようで、今も土塁の跡を見つけることもできますね。往時は二重の堀がめぐらされていたとも言いますのでかなり堅牢な城郭寺院だったのでしょう。
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