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堀川城跡登城日:(2008.08.30) 所在地: 浜松市北区細江町気賀 |
歴史 |
日本中が戦乱に明け暮れていた室町時代の終わりころ、この地方は今川氏の勢力下にあった。永禄三年(1560)の桶狭間の戦いで、義元が戦死した後、土地の人々はここに城砦を築き地名にちなんで堀川城と名づけ、形部(細江町中川)にも形部城を築き、徳川家康の遠州侵攻に備えた。永禄十一年(1568)形部城を落とした家康は、翌十二年三月二十七日に三千の軍を率いて堀川城に攻め入った。男も女も戦える者およそ二千人は、すべて城に立て籠って抵抗したが、みるまに落城した。この戦いに加わった大久保彦左衛門が書いた三河物語には「男女ともになで切りにぞしたりける。」とある。残った人々も徹底的に捕えられ九月九日ことごとく首を打たれた。三月二十七日の戦いでおよそ千人、九月九日に七百人余、当時の住民の半数以上の犠牲者を出したと伝えられる。
『堀川城跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
堀川城は、徳川家康の侵攻に備え、今川氏方の土豪、斎藤為吉・竹田右京・新田四郎・山村修理・尾藤主膳らが築いた城です。浜名湖の潮の干満をうまく利用した構造で、満潮時には船を使わないと城へ行けないというほどだったみたいです(『中世城館調査報告書集成』東洋書林刊参照)。今も周囲が水田が広がる地帯ですのでここがすべて水没してしまうのかと思うと恐ろしく感じます。でも結局家康に攻められたのは干潮の時だったって・・・あかんがな(-_-;。 ここに立て籠って失われた農民の多くの命を思うと、手を合わせずにはおれません。
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