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気賀陣屋

気賀陣屋跡


登城日:(2008.08.30)
所在地: 浜松市北区細江町気賀、気賀小学校
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
椎の木と気賀陣屋跡 ◆細江町指定天然記念物
 気賀近藤陣屋遺木江戸椎
 気賀小学校とこの付近一帯を陣中といい、江戸時代、旗本近藤家の陣屋(屋敷)があった所です。近藤家は、気賀の領主で、気賀関所も近藤家が治めていました。
 この椎の木は、陣屋の庭に植えられていたものといわれ、現在陣屋の面影を残すものはこの椎の木だけです。この椎の実はとても大きく、近藤氏が毎年この実を幕府に献上したことから、江戸椎と呼ばれるようになりました。

◆お姫様と大工の恋
 江戸時代、この辺りは気賀の領主近藤家の屋敷でした。
 その頃、近藤家にいた一人の美しい姫様は、屋敷に出入りしていた孫兵衛という美男の大工と恋に落ちましたが、やがて二人のうわさは屋敷内に広まってしまいました。
 「このままここにいては危険じゃ。孫兵衛、私を連れて逃げてくれぬか」
 二人は身の危険を感じ、一緒に逃げましたが、すぐに捕まってしまいました。
 姫様は恋しい孫兵衛を助けてくれるよう懇願しましたが、怒った殿様は孫兵衛を打ち首にするよう家臣に命じました。
 しかし、犯罪でもないこの罪人の命を奪うのは忍びないと、自分が罰せられるのを覚悟で、この家臣は孫兵衛を逃がしてやりました。
 その後、孫兵衛と引き離された姫様は、泣く泣く江戸の屋敷に引き取られていったということです。
 江戸時代は身分制度が厳しかったため、こんな悲しい話が生まれたのでしょう。

『気賀陣屋跡案内板』より

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資料
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私見
気賀陣屋跡である気賀小学校  気賀陣屋は、近藤屋敷とも呼ばれており「井伊谷三人衆」の一人近藤康用を祖としたものがやがて分知独立し「引佐五近藤」と呼ばれるようになる1つです。遺構はよくわからなくなっていますが案内板にあるように椎の木が唯一の陣屋の名残りなんでしょう。
 関係ないですが、いつの世もイケメンがもてるということなんですね。(^^
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