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光明城跡登城日:(2011.06.04) 所在地: 浜松市天竜区小川 |
歴史 |
光明城は、享禄年間(1528〜1532)朝比奈時茂が築城したとされるが詳細は不明。その後元亀年間(1570〜1573)になると武田方に属し、城番が配置される。天正三年(1575)六月、徳川家康の家臣、本多忠勝、榊原康政らによって落城すると、二俣城主大久保忠世の家臣が、天正十年(1582)頃まで城に入った。 光明山は、西暦七一七年高僧行基が開創した明鏡山光明寺により発展し寺院周辺には、数百年を経過した見事な森林が広がっておりましたが、昭和六年に発生した火災により、寺院及び森林は灰と化してしまいました。 その後、寺院は山東に移転再興致しましたが、石垣を残すのみとなった寺院跡地周辺の森林は、地域の人達により分収林(一種の借地造林)が設定されることとなり、そこに杉・檜などの植栽が行われる様になりました。 当時は林道も整備されていないため、下刈り・枝打・間伐などの保育作業は大変でしたが、地域の人達は荒れた山道を徒歩で幾度となく通い、熱心に作業を行い、現在の様な立派な森林が蘇り、古えの光明山美林が再現されたのです。 その後、林道の整備が進められ、また平成三〜四年度には、生活環境保全林事業が実施され、森林リクレーションを目的とした遠方からの来訪者で賑わいをみせております。 『現地案内板』より
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資料 |
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私見 |
やたらと長い山道をひたすらくねくねと車で登っていった先に、長い駐車場に到着しました。あまりに長いので途中で「間違ってたんじゃないかな・・帰ろうかな。」と思ったほどです。しかしこんなに立派な駐車場があるということは!とよく整備された山城をイメージしながら、登城開始です。ほぼ登りがなく平行移動ですし、藪をかき分けて進む場所もありませんので驚くことに夏場でも可能かもしれません。 時折石垣が残っている場所がありますが、近世の光明寺のものでしょうから複雑な思いで通りすぎていきます。そして城の中心部である本曲輪へ。ここは寺のものだとわかっていてもテンションが上がりますねぇ。四角い平場が三段になっていて、最頂部には天守台のように見えますね。お寺の建物があったとしてもかなりの迫力だったことでしょうね。そしてここからの眺望が光明城跡の一番の見どころ。遥か遠くまで見渡せる最高の世界が広がっています!標高540メートルの山頂から見える景色は街道を抑える拠点にしては高すぎですね。 ところで、ここで駐車場に戻ってしまっては城跡に来た甲斐がありません。本曲輪の奥へと進むと中曲輪があり、帯曲輪には井戸跡があります。さらに奥には郭台を持つ北曲輪があり、竪堀や堀切といった山城遺構が続きます。と言う私も実はそこまで行くのを忘れてましたが(汗)。なかなかお奨めのお城ですよ。(^^
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