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長久保城

長久保城跡


登城日:(2008.12.14)
所在地: 駿東郡長泉町下長窪
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
城山神社内に残る長久保城南郭の土塁 三の丸北に残る長久保城の土塁と空堀  長久保城は、中世に築かれた平山城である。戦略上の要所であったため、今川氏・武田氏・北条氏・徳川氏が支配を争った。江戸時代初めに廃城となったと言われている。
 城郭は、大部分が開発等で消滅し、現在では曲輪・土塁・空堀の一部を残すのみである。発掘調査により、城山神社社殿の建つ場所は、階段状の曲輪であったことが確認された。
 この神社の創建は明らかではない。古くは八幡社と言われていたが、後に城山神社と改称された。誉田別命・建御名方命・鳴沢比売神を祭っている。

◆長久保城の空堀と土塁
 長久保城は、中世の平山城ですが、築城年代ははっきりしません。戦国時代には、戦略上重要な拠点にあったため、今川氏、武田氏、北条氏、徳川氏がこの城をめぐり争いました。
 正面のくぼんだところは、地面を掘り下げてつくった、空堀(水をためない堀)です。堀の南側にある土手は土を積み重ねてつくった土塁です。この空堀と土塁は城の北川からの攻撃に備えてつくられたものです。
 現在、長久保城の城郭は、大部分が失われてしまいました。この空堀と土塁は、長久保城の姿を今に伝える、貴重な遺構です。

『長久保城跡案内板』より

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資料
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私見
二の丸と三の丸との間にあった堀跡 三の丸北に残る長久保城の土塁と空堀  長久保城の詳細は不明であるようですが、境の城として重要な役割を担っていたのか、日本城郭体系に掲載されている縄張り図をみるとわくわくしてきます。しかし実際には宅地化や商業地としての開発が進み、今ではすっかり様相が変わってしまっていました。
 本丸跡にはトイザらスが建ち、渋滞を作る一因となっていましたので城域に入るのも一苦労でした。まずは南郭、八幡曲輪跡となっている城山神社にはいっていきます。今なお残る土塁がうれしいです。城跡の段差地形を利用して滑り台が設置されていたり、櫓のような遊戯施設がありますが、それでもここがかつて城跡であったことだけは十分わかるようになっています。
 北側は裾野バイパスが通っていますが、二の丸と三の丸との間の大きな堀跡をうまく利用しているのですね。
 車で三の丸を抜け、北に走らせているとすぐに城跡遺構に気付きました。ちょうど北小学校の正門そばに立派な土塁と空堀跡が残されています。ここが三の丸の北端だとするとここから南へ下っている傾斜一帯が城跡だったのですね。改めて見直したその規模には驚きです。
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