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高天神城跡 登城日:(2000.08.26) 所在地: 大東町 |
歴史 |
◆追手門(大手門ノ址) 元亀二年三月武田信玄二万五千騎を率いて来攻、城門を襲ったが難攻不落と見て包囲を解いて退却した。 天正二年五月武田勝頼、二万騎をもって来攻、包囲猛攻、六月十八日武田勢内藤昌豊、山県昌景の精兵城門に突入、城兵必死の防戦、大石久未、川田眞勝以下城兵死傷75名武田勢死傷253名に及んだ。 天正八年十月徳川家康一万騎をもって当城包囲猛撃、二十三日本多忠勝城門に追ったが部下袴田源左ェ門城兵と戦い討ち死にした。 天正九年三月二十二日夜半城兵総突出に際し、徳川方武将松平康忠城門を破って突入し、追手櫓門を焼き落とした。 ◆本丸址 元亀二年三月武田信玄来攻に備えて、城主小笠原長忠二千騎をもって籠城、本丸には軍監大河内政局武者奉公渥美勝吉以下五百騎と遊軍百七十騎が詰めた。 天正二年五月武田勝頼当城包囲猛攻六月二十八日激戦、七月二日休戦、九日開城、城主長忠武田方に降り城兵東西に分散し退去、武田方武将横田尹松城番として軍兵一千騎を率いて入城した。 天正七年八月城兵交代、武田方猛将岡部丹波守真幸(元信)城代として一千騎を率いて入城した。 天正九年三月徳川家康来攻包囲十ヶ月、城中飢に瀕し二十二日夜半大将岡部真幸、軍監江馬直盛以下残兵八百、二手に分かれて城外に総突し激斗全滅した。二十三日家康入城検視、武者奉行及石元秦誅せられた。 城郭焼滅廃城となる。 『高天神城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
高天神城は武田勢と徳川勢とが数度にわたり激戦を展開した山城です。横須賀城跡から10分程度で高天神城の麓にまでたどり着くことができます。ここも横須賀城同様国の指定史跡なんですよねぇ。ってことで早速城跡専用の駐車場に車をとめていざ登城ます。
南北に2つの駐車場があり、本丸へいくのであれば若干北の駐車場から登ったほうが近いようですが、私は南からのぼってみました。ほとんど遺構は残っていないのかなといった印象です。でも行ってみてわかるってのがありますよね、ここ、とんでもないことがありました。
登っている途中から約2センチほどのパイプが通してあるので何かな?と思っていたのですが、本丸跡で水が飲めるよう水道が通してあります。なんと、山城で水道を通してあるのを見たのははじめてです。はたして水が本当にでるのかどうかは謎ですが、う〜ん何を考えているんでしょうか。
でもそれ以上に驚いたのが、記念撮影用の板でした。ほらよく観光地には和服を着た人間の絵が書いてあって、顔の部分が丸くくりぬいてあるやつがあるでしょ。なんでここにそんなもんを置いてるんだ?まったく、ここはセンスを疑う城跡でした。
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