万木城跡 登城日:(2003.05.10) 所在地: 夷隅郡夷隅町万木字城山 |
歴史 |
万木城は中世の城郭で現在までその遺構をよく留めている。 この城の立地は断層崖の急傾斜を三方にもった台地によっているが、この丘陵の三方は夷隅川の曲流に囲まれていて外堀の役目を果たし、守るには要害の地ということができる。この中世城郭は戦国時代の末期、すなわち十六世紀の中頃には完備した城郭であったことは永禄八年(1565)の行元寺文書の存在から傍証できる。この城郭が比較的単純であるというのは、土居の配置が単純で、ただ周囲の一部にめぐらされていたこと、空掘の築造がなかったと思われることなどであるが、これは地盤の基底が固い泥岩質で、急崖をめぐらしている崖端城ともいえる要害が然らしめたものであろう。万木城については不明な点が多く詳らかになし得ない。 土岐三代説(頼元 − 為頼 − 頼春) 五代説(頼元 − 頼房 − 頼定 − 為頼 − 頼春) 九代説(時政 − 光頼 − 頼金 − 頼為 − 頼元 − 頼房 − 頼定 − 為頼 − 頼春) 等さまざまで、いずれも確証がないため、謎に包まれたままである。いずれにしても、史料によれば頼春の頃天正末年には小田原北条氏に属し、小田原落城により、北条氏と運命を共にした事はまちがいない。城址には、当時のものと思われる井戸や落城のときに焼けた米が炭になって、当時米庫であったと思われる南側の台地の土中にまで散在している。 『万木城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
大多喜城を目当てに上総にやってきたのですが、そこで買った本に近隣の城跡がのってましたので万木城(万喜城とも)にやってきました。遠くから山上に天守らしき建造物を確認しながら目指す山、というか丘陵地に近づいていきます。 山上には駐車場が完備していますので車なら一気に上までいくことができるようになっています。城跡公園ということで整備され、案内板などもおいてあります。土塁や何段かの削平地、かつての見張り台でもあったのでしょうね、妙見台といわれている人工の小高い段もありました。 と、わざと話題をそらしているのもナンなので(笑)、この万木城といえば嫌でも一番目につきますね。天守風展望台、とでもいうのでしょうか。立派な屋根がついた展望台が城跡最高所である妙見台の上にたてられています。ご丁寧に金シャチまでついてました。建造物派の方にはこういうものでもあれば嬉しいのかもしれませんが、私はなんか不自然さを禁じ得ませんでしたよ。 さて、往時の万木城を守っていた土岐氏ですがかなりの歴戦の猛者なんですね。ここでかなりの激戦が繰り広げられていたようです。が、最後は徳川四天王の一人、本多忠勝に落とされてしまいました。
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