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臼井城跡
登城日:(2001.10.13)
所在地: 佐倉市臼井
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 土橋跡と空濠跡  千葉氏の一族臼井六郎常康が臼井に居を構え、臼井氏の中興の祖といわれる興胤(十四世紀中頃)の代に、この城の基礎がおかれたと伝えられる。現在の遺構は十五世紀以降のものと考えられるが、城跡は本丸、二の丸を中心として、空堀、土塁等の旧態をよく残している。
 戦国時代の末期には原氏が城主であったが、天正十八年(1590)小田原落城により、千葉氏とともに滅んだ。以後酒井家次三万石の居城となって、慶長九年(1604)の転封まで使用された。太田道灌・上杉謙信との攻防戦は有名である。

◆土橋
 土橋は、空掘によって区切られたI郭の坂虎口(出入口)とU郭を結ぶ通路の役目を果たしていました。
 土橋の幅を狭くすることで、一度に多勢の敵が渡れなくなります。さらに、曲がった坂をつけて敵の進む速度を低下させ、北にあるI郭の土塁上から側面攻撃を受けやすくなるように工夫されています。
 現在は、盛土によって覆い、保存しております。

『臼井城跡案内板』より

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資料  

私見 臼井城跡  臼井城は京成臼井駅の北西にそびえる高台の上にあります。歩けば10分ほどでいけるのですが、今回は佐倉市一帯を効率的に廻りたかったので城跡をめざすのではなく、まずは京成の線路沿いに京成佐倉駅方面に30分ほど歩きました。目指すは鹿島川が印旛沼に流れ込んでいる河口付近にたつ大きな水車が目印のふるさと広場です。ここは1日500円でレンタサイクルを使わせてもらえるのです。ママチャリしかないのが残念でしたが、まぁ贅沢も言ってられません。自転車にまたがると大急ぎで今歩いてきた道を逆走しました。そしてようやく臼井城跡へ。山の斜面をあがっていくと駐車場があります。ちょうどそこは本丸と二の丸との間にわたされた土橋の南側にあたる部分でした。
臼井城跡の土塁跡  土橋の上にあがってみました。見事に空濠が大きな口を開けています。この地点が臼井城跡の最大の見所です。次に本丸へと右折し直進しましたが、そのあたりは畑のようになっており、また土が掘り返されています。土橋や空濠は大事に保存されていることを考えるとこのギャップは信じられない扱いです。
 本丸をぐるりと一周しましたがちょうどここら一帯の一番の高所であることもあって印旛沼まで一面が見渡せるようになっています。今ではすっかり宅地化が進み、民家が密集していますがかつてはこの急峻な傾斜がこの城をして堅牢たらしめていたのでしょうね。また、本丸北部には太田図書のお墓がありました。文明十一年(1497)千葉孝胤(康胤の子)がこもるこの臼井城を太田道灌が攻め寄せたのでした。戦上手な道灌を見事敗退させた臼井城はまさに名城だったのでしょう。激戦の末、道灌の弟である図書助を討ち死にまでさせているのですから。
 佐倉市レンタサイクルの城攻め編、次を目指すことにします。
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