HOMEへ  

一宮城跡
登城日:(2001.02.11)
所在地: 徳島市一宮町
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 一宮城跡全容  一宮城は延元三年小笠原長宗が構築したもので自然の地形を利用した城として知られる。また、阿波山岳武士の根拠地として、さらには戦国時代の一宮氏の拠点として活躍した名城であった。
 今月残っている本丸の城壁・明神丸等の跡はこの頃のものであろう。その後長宗我部氏の侵入・豊臣秀吉の四国統平の際の攻防場となり、天正十三年、元和元年一国一城の制により廃城となっている。

 一宮城は、前方に鮎喰川、後方に険しい山々がそびえ立つ自然の要害に築かれた大規模な山城であった。
 現在では、標高百四十四メートルの本丸跡に石塁が残っており、その他、明神丸、才蔵丸、水手丸、小倉丸、倉庫跡の遺構も明らかで、貯水池といわれるくぼ地もその跡をとどめている。
 この城は、南北朝時代、南朝に味方していた山岳武士の拠点であり、一宮氏が長年居城としていたが、成裕のとき土佐の長宗我部氏に占拠された。
 その後、豊臣秀吉が四国を平定し、天正十三年(1585)、蜂須賀氏が最初入城したのが、一宮城であった。翌年、蜂須賀氏が徳島城に移ってからは、その支城として有力家臣を置いて守らせたが、元和元年(1615)の一国一城令により、廃城となった。
 なお、一宮城跡は県指定史跡となっている。
 また、一宮城跡周辺には、本拠が国の重要文化財に指定されている一宮神社、四国八十八ヶ所第13番札所の大日寺などの観光名所がある。

明神丸跡前 ◆倉庫跡

 この城には倉庫跡が2ヶ所あります。ふだんは穀類や戦闘用の道具類を保管していた所です。
 両方とも登山道の要所に置かれていましたが、戦いの折焼かれたといわれています。
 ここは「ヤケムギ」とも呼ばれ、以前には雨の後などに炭化麦が出土していました。

『一宮城跡案内板』より

【戻る】

資料  

私見 本丸跡  徳島県内でも貴重な山城です。遺構もよく残されています。
 一宮神社左奥にある登山道の左手側を進むことにしました。まずは整備された石段が続いています。倉庫跡が途中にありますが、その先から石垣や土塁のようなものも出てきました。才蔵丸、明神丸など曲輪跡もすべて看板が立ててあって城攻め初心者な方にも親切なものになっています。その先には本丸跡があるのですが、石垣が見事です。3メートルほどでしょうか、徳島城と同じ石が使われている気がします。石には詳しくないのでよくわかりません(笑)。
 この徳島攻め、ほとんどがただの神社だの、お寺だったりしたのでほんと満喫させていただきました。
【戻る】