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北町奉行所跡登城日:(2012.06.12) 所在地: 千代田区丸の内1丁目 |
歴史 |
この地域は、江戸時代には呉服橋門内と呼ばれ、文化三年(1806)から幕末まで北町奉行所が置かれていました。町奉行は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行のひとつで、今の有楽町駅前にあった南町奉行所と、ここ北町奉行所の二か所に分かれて交代で町人地の行政・司法・警察の職務を担っていました。名奉行として有名な遠山左衛門尉景元は、天保十一年から十四年(1840−1843)まで当所で執務をしていました。 平成十二年からの発掘調査では、北町奉行所の上水道や井戸、屋敷境などの遺構が発見されました。ここに復原した石組みの溝は、ここから西方約30メートルの地点で発見された、屋敷北東角の道路との境を巡る下水溝の一部です。この遺構は、本来3〜4段の石積みであったものと思われますが、発見された時は最下段を残すのみでした。溝の角石が切り取ってあるのは、邪鬼が進入する鬼門である艮(うしとら:丑寅)の方角を防護するための呪術的な意味を示すものとされています。 都旧跡 北町奉行所跡 所在 東京都千代田区丸の内一丁目一番地国鉄所有地内 指定 大正七年四月 江戸町奉行は徳川幕府の職制の一つで寺社奉行、勘定奉行とともに三奉行と呼ばれていた。江戸町奉行は老中の支配に属し、配下の本所奉行、道役、小伝馬町牢屋、寄場奉行、町年寄を統轄した。その職掌は江戸府内の行政・司法・警察の一切にわたっていた。定員は二名で南北両奉行に分かれ月番で交替に執務したが時に応じて増減された。原則として旗本が任命され役科は三千石、芙蓉間詰で勘定奉行の上座輩下に与力・同心などがいた。 「いれずみ奉行」として名高い遠山左衛門尉景元(遠山金四郎)は天保十一年(1840)三月から三年の間北町奉行の職にあった。 昭和四十三年十月一日 東京都教育委員会 北町奉行所の東方には、寛永十三年(1636)に築かれた江戸城外堀がありました。現在この地域の外掘は、常盤橋門跡や日本橋川の護岸の一部などに石垣が残りますが、東京駅周辺は昭和三十年代には埋め立てられ、今は外堀通りや交差点の名前などに名残を留めている程度です。 ここに再現した石積みは、かつて存在した外掘をイメージしたもので、その一部には鍛冶橋門(東京駅八重洲南口)周辺で発見された堀石垣を使用し、ほぼ当時の形で積み直しています。石垣石の表面には、築かれた当時の石を割った矢穴がみられます。 『北町奉行所跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
東京駅の北東部、現在のシャングリラホテル東京が建つあたりに北町奉行所が置かれていました。外掘通りや永代通りから1本中に入り、ビルの谷間となるここは人通りもまばらでまったく違った時間が流れているような錯覚に陥ります。南北にまっすぐ伸びた空間には江戸城の外掘の石垣も一部使われた石積みが整然と並び、落ち着いた中にもなんだかピンと張りつめた雰囲気も醸し出しているようでもあります。そんな中、奉行所の石積みが再現されており、案内板も設置されていました。 石積み(というか石列かな)の北東隅が欠けたようにして再現されているのは鬼門除けを見せてくれているんでしょうか。周囲の植え込みに生えた草が石を半分くらい隠してしまっているのが少し残念です。そしてそこから少し南に歩いて、グラントウキョウノースタワーへの小さな通用口みたいなところを潜りますと、再び東京駅の喧騒の中に引き戻されました。入口の足元には奉行所の古い案内板が残されていますが、出入口にあることでとても立ち止まって読むことが難しい状況です。無理やり残したといった印象が否めません。 現在、北町奉行所を訪れようとすると総じてとっても訪れにくい状態にあることがわかると思います。しかしながら人知れず残された史跡、知る人ぞ知るといった感じがかえってマニア心をくすぐるのも事実。慌ただしく行き交う人の波を避けて、たまにはこの静かな空間を楽しんでみるのはいかがでしょうか。
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