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品川台場跡


登城日:(2006.01.17)
所在地: 港区台場1丁目、他
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
弾薬庫跡 第三台場の石垣  品川台場の当初築造案によれば、南品川の猟師町から東北方の深川州崎までの2列11基と猟師町の海岸に1基を築造するものとなっていた。しかし、前年の5月に江戸城西の丸が焼失、6月には第12代将軍家慶が逝去するなど幕府の財政を逼迫する出来事が続いたため、計画を縮小した形で作業が進められていった。
 台場の陣形は江川英龍によれば、3つの機能を有していたという。第一は正面から来る敵を「迎え打つ」もの、第二は台場に接近した敵を「横打ち」するもの、そして最後が防御線を突破した敵を背後から「追い打ち」するといったものであった。しかしこれらは当初計画の11基をもとに考案されたことであったので実際にはその機能が生かされてはいないようである。

『品川台場史考』理工学社刊参照

第三台場に置かれた砲台(ただし後世のもの) レインボーブリッジから第三台場を望む ◆台場公園(第三台場)
 「お台場」の名で知られる品川台場は、江戸幕府が黒船来襲にそなえて品川沖に築いた砲台跡です。設計者は伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍で、ペリーが浦賀に来航した翌月の嘉永六年(1853)八月に着工、一年三ヶ月の間に六基が完成しました。
 現在は大正十五年(1926)に国の史跡に指定された第三、第六台場だけが残されています。
 このうち第三台場は、昭和三年東京市(都)によって整備され、台場公園として解放されています。周囲には、海面から五〜七メートルの石垣積みの土手が築かれ、黒松が植えられています。また内側の平坦なくぼ地には、陣屋、弾薬庫跡などがあります。

『品川台場跡案内板』より

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資料
 

私見
第三台場の波止場  ゆりかもめ「お台場海浜公園」駅を降り、砂浜を横目に歩きながら第三台場にやってきました。今までお台場には来たことはありましたが台場に来たのは初めてです。東側の堤防から階段がつけられており、上にあがると第三台場が一望できるようになりました。それまでの想像をはるかに超える状態にしばらく呆然としてしまいました。数箇所にわたって弾薬庫跡があり、中央には陣屋跡が残っています。なにより周囲をぐるりと高い土塁(でいいのかな?)が囲むその独特な形状に圧倒されてしまいました。また本物ではないにしても砲台跡が置かれているだけで十分当時の雰囲気が伝わってきそうですね。内海の向こうに見えるフジテレビや一帯の華やかなゾーンとのギャップがまた凄まじいです。
第六台場  続いて第六台場も写真に収めようと今度はレインボーブリッジに向かいました。ゆりかもめや高速道路となっている有名な橋ですが、実は遊歩道がつけられており自由に人が歩くことができるようになっています。ちょうど台場跡を見下ろす位置にありますので写真を撮るには絶好のポジションといえるのです。やがて見えるであろう光景を想像するともういてもたってもいられず思わず走り出してしまいます(^^;。しかしいざ橋の上に立つと平日の昼間でしたが車の往来は激しく、遊歩道は強烈な排気ガスの異臭を浴びせられることとなりました。さらにけたたましい騒音、そして激しすぎる振動。それらが執拗に行く手を遮っているかのようです。振動はたまりませんね。せっかく写真を撮りにいってるのですから手ぶれ写真では意味がありません。
 慎重に脇を固めじっくりと撮影していきます。さきほどまで気づかなかった埠頭跡や石碑もよく見えるようになっています。日光に反射するまぶしい海面に浮かび上がっているかのように見える様はとても敵を迎え撃つ軍事施設とは思えない美しさです。そしてその先の第六台場も撮影しておきます。こちらは立ち入り禁止ですので草木が生え放題となっていますので遺構の状態を確認しづらくなっています。保存のために立ち入り禁止とするのは理解できますが、せめて定期的に草木を刈って遺構の保存状態がわかるようになっててくれたらありがたいんですけどね。
 今まで兵庫県内の台場を中心に見てきましたが、品川台場との格差がここまではっきりしているのかと驚かされます。今では2基しか残されていませんが当時の様子はどうだったのでしょうか。おそらく残されていたら今のようなおしゃれなデートスポットとは違った発展を遂げたんでしょうね。
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