HOMEへ  

滝山城跡
登城日:(2002.08.25)
所在地: 八王子市丹木町
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 滝山城本丸跡  滝山城は、武蔵国の守護代大石氏(定重・定久)と小田原北条氏の一族(氏照)の居城であり、規模の大きさ、縄張りの複雑さ、遺構の保存状態の良さなどからみて、戦国時代の城郭遺構としては日本有数の遺跡である。
 永正十八(1521)年に大石定重が築城し、高月城から移転したと伝えられており、その後永禄元年(1558)前後に定久の養子として入城した北条氏照によって大改修が行われたと考えられている。
 浸食の進んだ加住丘陵の一角に占地し、複雑な自然地形を巧みに利用した天然の要害であり、特に北側は多摩川との比高50〜80mの断崖をなしていて、北から侵入する敵に対しては鉄壁の備えとなっている。城内は空堀と土塁によって区画された大小30ばかりの郭群が有機的に配置され、外敵の侵入に備えた心配りは実に美事である。
 大石氏時代には、現在本丸と呼ばれている主郭を中心として、二の丸と呼ばれている郭付近までであったと考えられており、小宮郭などその他の郭群は北条氏照時代に拡張されたものと言われている。
滝山城跡に残る見事な空堀  永禄十二年(1569)、甲斐の武田信玄が小田原攻略の途中で、二万の兵で本城を囲み、二の丸まで攻め寄せるほどの猛攻を加えたが、城主氏照を中心に城方もよくこれに耐えて守り抜き、落城をまぬがれたという。しかし、この戦闘の後、氏照は武田に備える戦略上の利点から八王子城を築き、天正十二〜十五(1584〜87)年ころに、その居を移した。

◆本丸跡
 曲輪(くるわ)は南北二段に分かれ、土塁により囲まれている。南側の低い段には出入り口と推定されている枡形虎口が二箇所確認でき、その一つは引橋を通じて中の丸へ、もう一つは堀底へと通じている。北側は一段高く、多摩川方面が一望のもとに見渡せる配置にある。

『滝山城跡案内板』より

【戻る】

資料  

私見 滝山城縄張り  滝山城へは小さめの車ならばそのまま二の丸まで(ほんとはいけないかもしれないけど行こうと思えば、中の丸まで)行くことができる程度の道がつけられています。くねくねと曲がりくねった道沿いには三の丸、二の丸、中の丸と続き、本丸へは中の丸経由で引橋を渡っていくことになります。かなり複雑な縄張りだということは中の丸にある縄張り図で確認できました。
 遺構の保存状態も実によく土塁や堀跡が惜しげもなく目の前に飛び込んできます。お城自体それほど比高があるわけじゃないのですがそれでも武田軍2万の軍勢を相手二の丸まで攻め寄られたといえ、無事に追い返した実績はすばらしいですね。やっぱり国の史跡の指定を受けているのは伊達じゃぁないなぁと思わせてくれる満足度の高い城跡でした。
【戻る】