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江美城跡登城日:(2010.05.03) 所在地: 日野郡江府町大字江尾 |
歴史 |
◆史蹟 江美城址 伯耆国江美城は、蜂塚氏初代の城主、安房守によって開創され、文明十六年(1484)と伝えている。 江美城は、自来、二代三河守、三代丹波守、四代右衛門尉と、八十有余年にわたって、つづく動乱の時世に処し堅固な要害と、有力な武力を保有し殊に城下領民を育て、鉄山と開田の技術を家業とする、和戦兼備の特色ある蜂塚氏一門の居城であった。 尼子毛利の攻防続く中で毛利の軍議は、江美城蜂塚氏一門の鉄の技術集団攻略を先発するに決し毛利の副将吉川元春は、軍勢三千に鉄砲隊を差し向け、その采配を杉原盛重に命じた。 この日あるをかねて覚悟の城主蜂塚右衛門尉は、この大軍をむかえ討ち、奮戦敢斗死力をつくすも衆寡敵せず、遂に自ら城閣炎上を命じ、割腹して城と運命をともにしたのであった。城主の壮烈な自刃のさまを見て、家臣郎党ことごとく城主の後を追い、江美城は、ここに落城したのであった。 時に永禄八年(1565)八月六日、朝まだき刻であった。江美城主右衛門尉は、尼子の非運にあるを見て「弱キヲ捨テ、強キニ附カンコト、禽獣ノ心トヤ云ウベシ」と断じ、吾れと吾が一門の安泰をかなぐり捨て、武人の友情と節に殉じた、希代の武将であった。 里人たちは、この哀しき宿命に果てた城主や家臣の霊を弔い、又、江美城中で催されて来た盆の十七夜踊りの思い出を秘めて、くる年も、くる年も踊りを伝えて四百年の歳月は流れた。 哀しくもゆかしい物語りが、今も尚、江美十七夜としてつづいている。 この踊りは無形文化財として指定をうけ伝承されている。 ◆江府町指定史跡 江美城跡 江美城跡は、だいせん火砕流台地を造成して、築かれた中世の山城で文明年間(15世紀後半)に蜂塚安房守によって築城され、二代・三河守、三代・丹波守、四代・右衛門尉と四代にわたってこの地を治めました。 永禄七年(1564)八月六日、尼子氏を攻略する為に山陰へ侵攻してきた毛利氏により江美城は攻略され、蜂塚氏は滅亡しました。 その後、美後・備中・美作方面に対する戦略的見地から、毛利氏により、蜂塚時代の中世的城郭から近世城郭へと大幅な改造がなされています。1997年12月の発掘調査により、多数の瓦片に混じって金箔装飾のある鯱瓦が発見されました。このことから安土桃山時代の後期、江美城には金箔装飾を施した鯱瓦を載せた立派な櫓があったことがわかりました。 『江美城跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
10年ぶりに江美城を再訪できました。松江城は何度か行くことがあってもなかなか米子道を途中で降りることがないんですよね。でもこの江美城はお奨めの城ですので、是非とも訪問してみていただきたいと思います。車をどこに停めるかに悩むところですが、電車で訪問する場合は江府駅からだとすぐ目の前の城を訪れるには何の問題もないですね。駅前の通りからすぐ上に繋がる道をあがっていくと(車で上まで上がれませんので注意)八幡丸跡に立つお城風二重の資料館が迎えてくれます。現在は閉鎖されており、中には入れませんが気にせず奥に進みましょう(笑)。南側に回り込んだ遊歩道を歩いて行くと目の前に本丸下の切岸なのか急峻な崖が実に堅牢な城跡であることを感じさせてくれますね。下からでは分かりませんが、この江美城の地形の妙は是非とも上まで上がってみて体感していただければと思います。 空掘跡を見ながらそのまま本丸跡へ。左を振り返ると江美城の大きな看板もありますが、きっとどこからも見えてないんじゃないかなと思います。もう少し西側からの眺望を意識して草刈りができればいいんでしょうけどね。(でも城好きはそれに関わらず来られると思いますが)。 本丸は一番大きな平坦地となっており、現在は田圃になっています。北東隅に石垣がよく残されていますのですが、無理やり石垣を避けるようにして田畑が耕されている印象を受けます。そしてその奥にはすさまじい落差の空掘が作られています。案内板には縄張り図と共に高低差が分かる図も入れてくださっていますのでものすごく見やすいです。それによればここの空掘は二十メートルの比高差があるんですね。ここに金箔瓦で彩られた櫓が聳えていたことを想像すると実に壮観だったことでしょうねぇ。 現在の江美城は、季節によって田圃や畑に配慮しながらの訪城となりますので気をつけて散策してください。ちょうど本丸南側に作られた農作業用具が入った建物が多聞のようになっているのが面白いです。
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