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因幡国庁跡登城日:(2009.08.14) 所在地: 鳥取市国府町大字中郷 |
歴史 |
国府・国庁とは、諸国の行政官庁が置かれた場所、あるいは役所をさしており、国府の中に国庁が存在しました。 国府の設立年代は、必ずしも明らかではありませんが、一般的には大化二年(646)の勅が国司制度の始まりと理解されており、この時期に、諸国の国府もそう遠くない頃に設置されたものと考えられています。 この辺りは、「因幡民談記」「因幡志」等に因幡国府の置かれた由緒ある所としるされ、その存在を知られていましたが、国庁跡については不明で、昭和四十七年から昭和五十二年までの発掘調査により明確となりました。 これらの発掘調査により、正殿跡・後殿跡・南門跡等を確認しています。 国庁域(国庁の範囲)は、東西約150メートル、南北213メートル・面積約32,000平方メートルが確認され、国の史跡に指定されました。そのうち、約7,000平方メートルを国府町が買い上げ、昭和五十七年から昭和六十年までの四ヶ年計画で環境整備が進められ、歴史公園として完成しております。 ◆後殿跡 正殿跡の北側にある建物で、位置・方位等から正殿跡と対を成すものと考えられます。 建物は桁行五間(2.25メートル等間)・梁行二間(2.7メートル等間)で東西棟の切妻型の建物です。 建物の内部は三宝に仕切られていたらしく、東西それぞれの妻柱から内側へ4.5メートルの位置に柱穴がありました。ここは国守が執務をとるところで、今の知事室のようなものです。 ◆正殿跡 発掘された建物群の中で一番規模の大きい堀立柱の建物で桁行五間(柱間2.4メートル等間)・梁行四間(3.0メートル、2.4メートル、2.4メートル、3.0メートル)で南北両面に庇が付けられています。 建物跡は、基壇や雨落ち溝などが全て削り去られており、残り具合は良くないが、今回発掘された建物群の中で中心を成していたものと思われ、柱を建てるために掘った穴は直径1メートルを超える大きさです。国司が政治を行った場所です。 ◆南門跡 確認した建物の規模は、東西二十三メートル(柱間2.7メートル等間)南北十二メートル(柱間3.9メートル等間)の建物です。 建物の北側には、明瞭な雨落ち溝や縁石が残っていました。 この建物は、中世の遺物を含む土層から堀り込まれており、正殿跡、後殿跡よりは一時期新しい鎌倉時代のものと考えられています。この建物が国庁跡の南隅を示しています。 柱跡は、御影石の円柱で表現しています。 『因幡国庁跡』案内板より
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資料 |
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私見 |
鳥取市国府町には因幡国の国府がありました。その名前の由来がそのまんま残っているわけですね。ということで、因幡国庁跡にやってきました。よく整備されているだけに最初は「小さいな」と感じましたが、国の史跡に指定されたエリアのうち、史跡公園となっているのは一部だけなんですね。周囲は水田として使われていますけど、ほんとは国の史跡だということなんでしょうか・・。 公園は正殿、後殿、南門などが柱跡を石柱でわかりやすくしてあり、建物の規模と国庁跡を想像しやすくしてあります。近所にある因幡万葉歴史館を先に立ちよれば、国庁の模型もありますのでより分かりやすくなるでしょう。 私はと言えば・・・周囲に見える里山に目移りしながら山城探索のシーズン到来を早く来てほしいとじりじりとしていたのでした。
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