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富吉城跡
登城日:(2004.03.20)
所在地: 気高郡気高町大字宝木、母木神社
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
藪でよく分からないのが残念 ◆母木神社
 祭神は、応神天皇、神功皇后、仲哀天皇、倉稲魂命で、勧請年月は明らかでない。古くは八幡宮といって母木村(今の宝木)氏神であった。
 神社の棟札に「寛延年中(1748〜51)宮吉保六か村氏子中」とあり、以前は母木、新町、富吉、常松、酒津、奥沢見の人々に尊信されていたが、現在は宝木の鎮守の神として崇敬されている。明治元年(1868)境内末社の稲荷大明神(倉稲魂命)を合祀して母木神社と改称した。
 祭礼日は四月十三日であったが、現在はその日の前の日曜日、当日は麒麟獅子舞いや時代行列が行われる。また、この南の山上には宮吉城跡があり、田公新介高家の拠ったところである。
 羽柴秀吉の中国攻めの時、毛利氏に属しながら秀吉方に内通したため、天正九年(1581)吉川勢により落城した。

『母木神社案内板』より

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資料
 

私見
南側だけ下草がない削平地です。  JR山陰線「宝木」駅からすぐ南にある母木神社の南にたつ小高い独立丘陵が富吉城(宮吉城とも)跡です。登城口を捜しましたが、はっきりとそれとわかるものは見当たりませんでした。そこで仕方なく神社境内奥から無理やり直登です。比高10メートルほどの小さな山ですが、四方が崖となっていますので、当時どうやって登っていたのかなぁと素朴な疑問が浮かびます。木の枝につかまりながら、少しずつ登っていきましたが、ここ下りはもっと大変です(笑)。
 頂上部にあがると今度は藪こぎです。案の定、人が踏み込んだような形跡もなく、自然のままになっています。が、よく見ると南側に1メートルほどの段差の土盛りがされており、東西に伸びているのが分かります。そこを境にして、南側に段差2メートルほどの下に削平地が残っています。ここだけ全然草が生えていないのが妙でしたが。
 結局、3段ほどの平地が残るだけの小さな城でしたが、このあたりは羽柴軍と毛利軍とのハザマで激しく展開される生き死にがあったんでしょうね・・。
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