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八橋城跡
登城日:(2001.08.12)
所在地: 鳥取県東伯郡東伯町八橋
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
八橋城跡、右側の奥に石垣があります  この城山は山陰線の開通により分断されたが八橋城跡である。中世、行松氏の居城で大江城とも号した。
 大永四年(1524)ここを攻略した尼子経久は城番として吉田左京亮を置いて伯耆支配の拠点とした。その後、尼子氏を滅ぼした毛利氏は杉原盛重に城を守らせた。天正年間に入り織田氏と対決するようになると、八橋城は山陰での毛利勢の中心拠点として重要視され、城の整備が進められた。「伯耆民談記」によれば東に大手を構え、本丸と二の丸があり、周囲に堀を巡らせていた。豊臣治下では南条氏が領有したが、関ヶ原の合戦後の徳川治下で一時期、中村氏、市橋氏が封ぜられた。
 元和三年(1617)池田光政が鳥取藩主になったとき一藩一城制で廃城となる。寛永九年(1632)池田光仲入国後、津田氏が八橋を領有し、以後明治維新まで陣屋を置いて治めた。
 津田氏の菩提寺体玄寺(南西ニ00m)の西丘陵上に津田家の墓所がある。雄大な墓碑十一基が往時を偲ばせている。

『八橋城跡案内板』より

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資料  

私見
打ちこみハギの石垣?!  八橋城攻城は実は二度目でした。前回は何故か近隣をあちこち探し回った挙句見つからず諦めてしまったのですが、今回はやけに簡単に見つかりました。9号線の「八橋駅口」の信号を南下するとつきあたりにはJR山陰線八橋駅があります。その向って右手側に比高十五メートルほどの小高い丘が八橋城跡です。登城口には城址碑と案内板がありました。「こんなところにあったのか・・」なんで前回わからなかったのかがほんと不思議でした。
 まずその小高い丘を登ってみます。すぐに朔平地に出ます。郭跡だったのでしょうね。すこし土塁らしきものもみてとれます。また登ってくる坂の途中にも石垣が残っており、こんな小さな城でも立派に往時の面影を残しているんだなぁと感動させてくれます。その朔平地には稲荷神社がまつられていました。
 次にさらに頂上を目指します。するとさっきまでの感動が嘘のようにひいていってしまいます(笑)。
野面積み?!  A新聞社の慰霊碑がたっているのです。なんでこんなところにたててるのかなぁ・・でもいろんな山城の主郭部ってこういった忠魂碑だとか慰霊碑ってよく見かけます。城との関連性がよくわかりませんが、やっぱ一番ありがたいところだからなんでしょうかねぇ。よくわかりませんが・・。
 すぐに下まで降りるとこんどは登城口のすぐ右手にある細い畔道を進んでいきました。途中から隣に建つステップ電機(株)さんの敷地にはいってきてしまいました。でもおかげで石垣がどーんと目に入ってきました。まずは打ちこみハギの石垣があり、すぐあとに野面積みの石垣が出てきます。やけに丸いいしが気になって「これ本当に当時のもの?」と思いましたが、それにしてもこんな小さな城跡でこれだけの石垣が残っているとは予想外です。JRに分断された哀れな城跡なんですけどね。
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