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岩国城跡
登城日:(2003.10.25)
所在地: 岩国市大字多田
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
錦帯橋越しに見る岩国城 ◆吉川経家弔魂碑
 天下統一を目指す織田信長は、天正八年(1580)六月、羽柴秀吉をつかわして鳥取城攻めを開始した。鳥取城主山名豊国は、城内の多数の意見を無視して秀吉に降伏し、城外に脱出した。豊国の家臣達は吉川元春に城将の派遣を要請し、元春は石見国温泉津福光城主吉川経家に命じて城督とした。天正九年三月、経家が入城し城内を調査したところ、貯蔵された食料がわずか三ヶ月分位しかなく、食料の補給を図ったが、城内に搬入しようとする輸送船は、すべて秀吉軍に捕獲された。
 時日が経過するに従って餓死する者が続出し、その惨状は言語に絶した。開城の条件として、城兵全員の救助を誓約し十月二十五日「天下を争う織田、毛利両家の二つの御弓矢の場で切腹する自分を名誉に思う」という遺書をしたため、城内広間において三十五才の命を断った。その子孫は岩国藩に仕え、藩政に貢献した。
 その英魂を弔うため、昭和十四年弔魂碑が建立され、礎石に鳥取城の石十二個が使用されている。なおこの場所は、江戸時代にその吉川氏の屋敷のあった所である。

 ここは岩国城の一郭。山上の要害に対して御土居(おどい)ついで御館(おたて)と称した。近世二百七十年の間吉川氏の居館があり、岩国藩政府の役所が置かれた。その普請は、山上の天守に先だって慶長七年(1602)の春に着手され、同年冬には一部竣工、広家の入居をみている。もとより、城郭の完備したのはニ、三年後であろう。
 正面(図の中央部)及び南(左上部)北(右手)に門があり、矢倉も三ヶ所に配備されている。中の主要建造物は表御殿(図の中央部)御納戸(左上部)御裏山(山際に長く連なる)の三部から成り、表御殿には玄関、広間、書院のほか御用所(家老や御用人の集議所)があり、御納戸には藩主の居間、書斎などのほか近侍の詰所があり、御裏には藩主婦人の寝室、居間ならびに女中の局が並んでいた。
 明治元年(1868)、吉川氏が城主格となり以来お城と称したが、同四年七月廃藩、ここは岩国県の県庁となった。しかし翌年県庁は山口に統合され、支庁となったが、それも束の間、支庁が他に移されここは不用公有物として土地建物ともに競売に付された。同十八年城跡に旧藩主を祭る吉香神社が移されその境内として公園化が進められ、今日の吉香公園となった。因みに本図は明治初年の元旦登城風景である。

◆錦雲閣
 お城の水に臨んで矢倉のようなこの建物が錦雲閣である。
 吉香神社境内の南隅にあたり旧藩時代には三階建の南矢倉のあった所で、明治十八年(1885)居館跡が公園になったとき、この絵馬堂が建造された。木眉(1文字)間の横に長い額は毛利元昭の直筆で、現在は市立図書館に所蔵されている。
吉香神社 ◆岩国城跡天守台について
 岩国城は、江戸時代には珍しく、山上に築かれた近世城郭である。この城郭は、毛利氏の一族、吉川広家(きっかわひろいえ)が慶長8年(1603)に着工、同13年に完成したが、元和(げんな)元年(1615)一国一城令により破却された。
 城郭の中心となる天守台は、古式穴太積み(こしきあのうづみ)と呼ばれる石積みを基本としながらも、戦国時代に、地方独自の石積みの技術が加わった形で造られた構造物である。
 天守台の石垣は、大きめの石と、すき間に詰めた小さめの石からなり、隅部の角石(すみいし)には算木(さんぎ)積みの技法が見られる。その隅部には、反りはなく、ほぼ直線上の稜線に仕上げられており、見かけの美しさよりも構造力学上の安全性に重点を置いた造りになっている。これにより、戦国武将吉川氏の石垣の力強さを垣間見ることができる。
◆岩国城天守閣由来
 岩国城は、吉川家十七代の広家公が慶長五年岩国に移封されてより建設が計画され、先ず最初に山麓に平生の居館を構え、ついで横山の要害を城と呼び、山麓の館を土居と称した。
 岩国城は、慶長八年、二宮佐渡が鍬初めを行い築城奉行に松岡安右ヱ門、祖式九右ヱ門、二宮兵介、吉田宗右ヱ門等を任用し、五年の歳月を要して慶長十三年(西暦1608)に山頂の要害はことごとく完成し城番制が定められた。
岩国城天守閣  ●築城当時の岩国城の規模
 城山の尾根沿いに長さ一八〇米、横に一〇八米〜五四米、石垣の高さ五・四米、天守閣は桃山風の南蛮造りと言われ、四層五階で本丸の北隅にそびえていた。この外に矢倉五棟、折り回し大門ニ門、埋門一門、井戸ニ堀があった。
 横山側の前方を大手とし、御庄後方を搦手として錦川を隔てて北方に安芸境をにらんでいた。
 元和元年(西暦一六一五)六月、徳川幕府の一国一城の制により取り壊しにあった。その後城跡は石垣の一部を残し荒涼たること約三六〇年にして昭和三十六年三月復元工事に着手し、昭和三十七年三月に竣工したものである。
 高さ ニ〇・ニ三米
 面積 一階 ニ六六・九九七平方米
    ニ階 一八六・ニ八三平方米
    三階 一六〇・〇八七平方米
    四階  四二・三八〇平方米
    地下 一〇八・一六一平方米
 延面積   七六三・九〇八平方米

『岩国城跡案内板』より

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資料
◆岩国藩歴代藩主一覧
01 1600〜1616 慶長5〜元和2 吉川広家
02 1616〜1663 元和2〜寛文3 吉川広正
03 1663〜1679 寛文3〜延宝7 吉川広嘉
04 1679〜1696 延宝7〜元禄9 吉川広紀
05 1696〜1715 元禄9〜正徳5 吉川広逵
06 1715〜1764 正徳5〜明和元 吉川経永
07 1764〜1792 明和元〜寛政4 吉川経倫
08 1792〜1803 寛政4〜享和3 吉川経忠
09 1803〜1807 享和3〜文化4 吉川経賢
10 1807〜1836 文化4〜天保7 吉川経礼
11 1836〜1843 天保7〜天保14 吉川経章
12 1844〜1868 弘化元〜明治元 吉川経幹
13 1869〜1871 明治2〜明治4 吉川経健

私見
香川家長屋門  出張をうまく使って広島から岩国まで足を伸ばすことができました。JR岩国駅からバスに乗って錦帯橋まで。そしてそこからは有料となりますので、錦帯橋とロープウェイの往復券840円を購入します。錦帯橋を渡り終わるとそこは意外と賑わっている観光地になっています。香川家長屋門、吉川史料館、吉香神社、吉川家墓所など歴史スポットなほか、岩国歴史美術館、白ヘビ観覧施設(笑)などもあります。
 ロープウェイをあがるとそこからは趣ががらりとかわることを感じ取ることができました。天守閣への道は舗装された平坦な道と、山道の2つの道が用意されており、どちらからでも約5分ほどで到着することができます。が、やはりここは山道を行かれることをお勧めします。崩れかけた石垣などを確認しつつ土を歩いていきながらの登城こそが城攻めですよねぇ。まぁ私はスーツに革靴でしたが全然険しいところがありませんのでそういった格好の方でも余裕で歩けます。(ってそうそういませんか)
 天守閣は昭和三十六年に復元されたのですが、錦帯橋からの眺めを考慮されてやや南につくられたのですが、本来の位置である場所には天守台が残っています。
 時間の都合上あまりよくまわれなかったですが、ここだと1日くらいは時間をかけることができ、もう一度行ってみたいところです。

 ってことで再訪してみました。天気にも恵まれゆっくりとめぐることができました。今回は車で来たのですがあえてロープウェイ下の駐車場に停めず、遠い錦帯橋脇の川辺の駐車場に車を入れました。岩国に来たら錦帯橋を渡ってから、岩国城にいかなくちゃダメですよねぇ。
 で、岩国ずしをいただき、岩国城へと向います。残念ながら紅葉にはちょっと早かったのですね。
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