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山口城跡


登城日:(2006.11.26)
所在地: 山口市亀山町
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
城跡を色濃く残す水堀も美しいですね。 山口城の大手門が残されています。  山口城(藩内では山口屋形とも言う)は、元治元年(1864)に毛利敬親が防長二州の政治を行いやすいようから山口に移してきた中枢機関である。その規模は敷地面積一万六千坪で、背後に高嶺城を負い、前面には堀をめぐらしていた。
 完成した山口城であったが、元治元年七月に兵を率いて禁門の変を起こしたことで賊名を被り、幕府の長州征伐を受けることとなった。これに対し毛利敬親は山口城の一部破却と、へ戻ることで幕府の解兵を果たし、急を凌いだ。
 この事態に対して高杉晋作は奇兵隊を率いて挙兵、革新派が活発化し討幕への声が俄かに高まった。慶応元年(1865)敬親は蟄居していた萩を発ち山口入りを果たす。
 同年六月、長州の四境(石州口、芸州口、大島口、小倉口)にて戦いの幕が切って落とされることとなった。いわゆる第二次長州征伐、四境戦争である。その結果、長州藩の圧倒的勝利に終わった。
 明治二年、版籍奉還の議が聴許され、家督を継いだ毛利元徳が山口藩知事に任ぜられた。以後山口屋形は山口藩議事館と改名、翌三年には藩庁と改称された。続いて翌四年には山口、豊浦、岩国、清末の四藩が廃され、各県が成立し、やがて山口県が成立した。そして山口藩庁は改めて山口県庁としてその姿を変えていった。

  ◆旧山口藩庁門 一棟
 この門は、元治元年(1864)時の藩主、毛利敬親が、藩政の本拠地を萩から山口へ移すため建設した山口政事堂の表門として築造されたものと言われています。
 築造当時は、幕末の動乱期にあたり、高杉晋作、桂小五郎、伊藤博文等の藩士が足早にこの門を往来したことと思われます。
 門の構造は、切妻造・本瓦葺の薬医門であり、主材はけやきと松を用い、木割は太く豪快で、いかにも城門らしい風格を残しています。
 明治四年(1871)の廃藩置県までは、藩庁門として使用され、その後は山口県庁正門として、さらに新県庁舎(現県政資料館・国指定重要文化財)が完成した大正五年(1916)からは、西口の門として利用され、現在に至っています。

『日本城郭体系14』新人物往来社刊参照

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資料
 

私見
背後には高嶺城が控えています。  小雨が降る中でしたが、山口城の表門と水堀が今なお毅然として佇まいを残しているのを見ると感じ入るものがありますね。門の案内にもありますがここを多くの維新志士が往来したことでしょう。本当は高嶺城を目指したかったのですが、この門を撮影したことで良しとして次を目指すことにします。
 撮影で立ち寄った間にも観光バスが止まり、なにやら乗客に説明しているようでした。雨だったからか、それともその程度の扱いだったからなのかは不明ですが誰も降りることなくバスは足早に立ち去っていきました。(^^;
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