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八田家御朱印屋敷

八田家御朱印屋敷跡


登城日:(2012.03.31)
所在地: 笛吹市石和町八田
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
 八田家御朱印屋敷と書院
山梨県指定有形文化財建造物
 八田家書院(附土蔵棟札、永々日記、家政歴年鑑、地相絵図面、八田村古絵図)昭和三十六年指定
山梨県指定史跡
 八田家御朱印屋敷 昭和四十四年指定

公園化されている八田家御朱印屋敷 八田家御朱印屋敷  八田氏は八田権頭宗綱(常陸国、宇都宮氏流)の末裔とされるが詳細は不明である。戦国期に武田氏に仕え、信玄の頃は蔵前衆の要職にあった。家重のときに一宮町末木の地を武田氏から拝領し姓を末木に改めたが、武田滅亡のあとも徳川家康の庇護を受け、末木政清は八田に複姓した。天正十一年(1583)四月兄政清が、同九月には弟の新左衛門尉が棟別の免許を受けている。
 新左衛門尉には男子がなく、政清の二男政俊(菅太郎)が両家を相続し、苗字帯刀を許されるとともに、三千四百坪の屋敷地が御朱印地として安堵された。現在の八田家屋敷地は御朱印地の西の一画で、旧笛吹川に面する北辺には高い部分で約2メートルある水防堤を兼ねた土塁が残る。
 八田家の由緒書きによれば、天正十年(1582)三月、織田軍の兵火により建物はことごとく焼失してしまったという。しかし徳川幕府にり万力(山梨市)や富士裾野の木材の使用許可を得て建物は再建された。現在残っている書院はこのときに建築されたようである。伝承によれば屋敷地には主屋のほか、西座敷、西蔵、中味噌蔵、文庫蔵、御方屋、酒部屋などがあったという。主屋については安政水害後に取り壊された際の記述で、「間口十一間、奥行四間、カンバ茸」となっており、石置屋根で内部は柱と壁が密に配されていたらしい。
 茅葺入母屋造の本書院の間取りは西から九畳の奥間、十五畳の中間、八畳の三の間が並び、これに一間の入側、式台玄関などが配される。柱には栂材を用い、各間の内装は長押打ち、竿縁天井張りの書院造の造作を維持する。ただし奥間の柱のみ径四寸の柱の面皮柱を用い、付書院、肘掛窓とあわせて数寄屋風を醸し出している。
 書院の建築年代は特定されていないが、東隣の願念寺より二年古いという伝承がある。様式、木割、残る建具の一部など古い要素をとどめる一方、天井の竿縁が太いこと、数寄屋風の奥間などは十七世紀の特徴を具えている。
 古文書は多く、永禄十二年(1569)の末木家重譲状を筆頭に、絵図まで含まれている。慶長十一年(1606)の家財・人別・牛馬の目録の他、安永〜寛政年間の「永々日記」、寛政〜明治年間の「家政歴年誌」、土蔵棟札(文久元年)などがある。

 八田家書院と表門
石和陣屋移築門  八田家は昔武田氏の蔵前奉行として、年貢の収納、軍糧の輸送を司っていたため、天正十年(1582)三月織田軍の兵火に罹り居宅其他を悉く焼失した。同年七年徳川家康入国の際、徳川家に隷属し、家康から万力御林の材木を賜って母屋(この建物は安政六年(1859)七月笛吹川洪水のため大破したので取壊す)を造立し、又慶長六年(1601)都留郡富士根の材木を賜って書院を構築した。
 この書院は茅葺入母屋造、桃山時代末期の武家書院様式で現在まで補修が完備して、よく当時の格調を保存しているとの理由で昭和三十六年十二月七日山梨県指定文化財となった。
 同家表門は寛文元年(1661)石和代官所創設の際代官岡勘三郎良辰が石和陣屋表門として建立したものを、明治七年(1874)十一月払下げを受けて当家の表門としてここに移築したものである。

『八田家御朱印屋敷跡案内板』より

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資料
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私見
八田家御朱印屋敷 土塁がよく残っています  八田家御朱印屋敷は、山梨県指定文化財となっている入母屋造の書院や多くの文書類などが残る甲斐の豪族屋敷跡です。現在は公園化されており、駐車場、トイレが完備された大変訪れやすい状態になっていました。庭園はよく整備されてはいますが、よくわからないオブジェが並んだ展示場のようになっていますのでスルーします(^^。やはりここは書院を堪能しないといけませんね。しかし私は北側に残る高い土塁に目を奪われてしまいました。案内板の文章に書かれている水防堤を兼ねていたという代物ですね。これが残っているかどうかで城好きのテンションが全く違ってきますよね。いやぁ素晴らしい!
 石和陣屋から移築されてきた表門も見応えがありますし、この御朱印屋敷はかなりお奨めの城と言っていいかもしれません。ただ全体を見渡すと統一感が無いといいますか、落ち着かない気がしてしまうのですが(^^;。
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