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甲府城跡登城日:(2008.02.11→2009.04.20) 所在地: 甲府市丸の内1丁目 |
歴史 |
甲斐国は、天正十年(1582)武田家滅亡後は、織田信長・徳川家康(城代平岩親吉)の時代を経て、天正十八年(1590)豊臣秀吉の支配となり、羽柴秀勝、加藤光泰、浅野長政・幸長親子により治められました。 甲府城は慶長五年(1600)頃に浅野氏により完成したと考えられます。関ヶ原の戦い後は徳川義直(家康の九男)、忠長(2代将軍秀忠の三男)、綱重(3代将軍家光の三男)、綱豊(後の6代将軍家宣)ら徳川家一門が城主となり城番・城代制がしかれました。宝永二年(1705)には、徳川家以外の大名として武川衆出身の柳沢吉保・吉里親子が領主となり、この時期に城下町も大きく発展しました。柳沢氏の大和郡山移封後は、甲府勤番制となり、また、大火にもおそわれ、次第に壮麗な姿は失われていきました。 明治代には廃城となり、建物はほぼなくなり、葡萄酒醸造所が造られるなどして、明治三十七(1904)に舞鶴公園として開放されました。 大正六年(1917)に明治維新後陸軍省所管となっていた甲府城跡を、甲府市(旧柳町在住)の村松甚蔵氏の寄付をもとに払い下げを受けて県有地としました。戦後の市街地復興に併せて公園整備を進め、昭和三十九年(1964)に都市公園「舞鶴城公園」として都市計画決定され、昭和四十三年には県の指定史跡となりました。その後広く県民に利用されて来ましたが、施設の老朽化などの理由により、昭和六十年代に入り公園の改修を求める声が高まってきました。 そこで山梨県は、平成二年から舞鶴城公園整備事業を実施し、石垣の改修、園路・広場の再整備、堀の浄化、占用物件の移転、門(鍛冶曲輪門・内松陰門・稲荷曲輪門)や塀の復元、稲荷櫓の建設などをおこないました。またそれに伴う発掘調査で、本丸や天守台の周辺からは金箔を貼った鯱瓦、鬼瓦が多く出土しました。 『甲府城跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
7年ぶりに甲府城にやってきました。前回はなかった稲荷曲輪が完成しており、復元工事は一通り終わったようですね。甲府駅前で信玄の像と再会し、そのあと登城となりました。 復元された門の1つ、西側にある下松陰門からはいってみましたが、ここ恐ろしいですね。ほんとだったらこんなところから無事に攻めこむことは絶対無理じゃないでしょうか。左右から見下ろされて銃弾をあび、門をくぐったとしてもまだ全方位からの集中砲火じゃないですか(-_-;。と、まぁ誰もいないのをいいことに妄想しながら進んでいきます。 そのまままっすぐ進むと本丸となり、目の前には天守台の石垣が見えてきます。実にあっけないのですが、南側から周りこんでいれば何段かに分かれた迫力ある石垣の姿に圧倒されることでしょう。ちょっとルートを誤ったかもしれません(^^;。とにかくそのまま天守台にあがります。すると7年前に訪城した際に感じた感想がそのままよみがえってきました。「落書きがひどいな・・」 非常に残念ですが、石垣のあちこちに心ない人が残した落書きが目立ちます。以前はなんとか修復できないものかと書きましたが、よく考えてみればペンで書かれたわけじゃなく彫り込まれているのですから、消したければさらに掘ってしまうか、石自体を変えないといけないということになります。なんとか目立たないようにする方法はないものなんでしょうか。実に残念なことです。 さて天守台ですが、ちょっといびつな形状をしています。「あなぐら」と言い、貯蔵倉庫の役割も果たしているのですがここははっきりと見ることができますね。 天守台から見下ろした城跡の現状はほんと綺麗に整備された公園だとわかります。高台を利用した構造がよく理解できますので南方に広がる鍛冶曲輪や北東の稲荷曲輪や新しく復元された稲荷櫓も大きな存在感を発揮していますね。ほんとは外郭まで含めるとかなりの規模を誇るお城だったのですが場所が場所なので、やむをえませんか・・。今後も今の状態を維持していっていただきたいです。落書きがこれ以上増えませんように。
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