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甲府城跡登城日:(2008.02.11→2009.04.20) 所在地: 甲府市丸の内1丁目 |
歴史 | ![]() ![]() 甲府城は慶長五年(1600)頃に浅野氏により完成したと考えられます。関ヶ原の戦い後は徳川義直(家康の九男)、忠長(2代将軍秀忠の三男)、綱重(3代将軍家光の三男)、綱豊(後の6代将軍家宣)ら徳川家一門が城主となり城番・城代制がしかれました。宝永二年(1705)には、徳川家以外の大名として武川衆出身の柳沢吉保・吉里親子が領主となり、この時期に城下町も大きく発展しました。柳沢氏の大和郡山移封後は、甲府勤番制となり、また、大火にもおそわれ、次第に壮麗な姿は失われていきました。 明治代には廃城となり、建物はほぼなくなり、葡萄酒醸造所が造られるなどして、明治三十七(1904)に舞鶴公園として開放されました。 ![]() そこで山梨県は、平成二年から舞鶴城公園整備事業を実施し、石垣の改修、園路・広場の再整備、堀の浄化、占用物件の移転、門(鍛冶曲輪門・内松陰門・稲荷曲輪門)や塀の復元、稲荷櫓の建設などをおこないました。またそれに伴う発掘調査で、本丸や天守台の周辺からは金箔を貼った鯱瓦、鬼瓦が多く出土しました。 『甲府城跡案内板』より
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資料 |
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私見 | ![]() ![]() 復元された門の1つ、西側にある下松陰門からはいってみましたが、ここ恐ろしいですね。ほんとだったらこんなところから無事に攻めこむことは絶対無理じゃないでしょうか。左右から見下ろされて銃弾をあび、門をくぐったとしてもまだ全方位からの集中砲火じゃないですか(-_-;。と、まぁ誰もいないのをいいことに妄想しながら進んでいきます。 そのまままっすぐ進むと本丸となり、目の前には天守台の石垣が見えてきます。実にあっけないのですが、南側から周りこんでいれば何段かに分かれた迫力ある石垣の姿に圧倒されることでしょう。ちょっとルートを誤ったかもしれません(^^;。とにかくそのまま天守台にあがります。すると7年前に訪城した際に感じた感想がそのままよみがえってきました。「落書きがひどいな・・」 ![]() さて天守台ですが、ちょっといびつな形状をしています。「あなぐら」と言い、貯蔵倉庫の役割も果たしているのですがここははっきりと見ることができますね。 天守台から見下ろした城跡の現状はほんと綺麗に整備された公園だとわかります。高台を利用した構造がよく理解できますので南方に広がる鍛冶曲輪や北東の稲荷曲輪や新しく復元された稲荷櫓も大きな存在感を発揮していますね。ほんとは外郭まで含めるとかなりの規模を誇るお城だったのですが場所が場所なので、やむをえませんか・・。今後も今の状態を維持していっていただきたいです。落書きがこれ以上増えませんように。
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