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大和郡山城跡
登城日:(1999.08.06)
所在地: 大和郡山市
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 城門内の内堀跡。  郡山城のある地域は、平安末期より郡山衆の居館があったが、のち嘉吉年間に越智氏・筒井氏の抗争が盛んとなり近隣勢力は両派に分かれ戦に明け暮れるようになった。
 明応七年(1498)二月、郡山衆が筒井氏の軍門に下ったのを機に、筒井氏は一帯を支配するようになった。当時の郡山城は土塁、堀だけの「掻き上げ城」であった。筒井氏は当初この城を筒井城の支城として利用していたが、永録に年(1559)、松永久秀が信貴山城に入ってのちはまだ幼い当主、順慶を抱える筒井氏は著しい圧迫を加えられた。
 天正五年(1577)松永久秀が憤死したのとほぼ同時に順慶は、郡山城を本城として大々的な改修を開始した。後に、織田信長の命によって大和の国主となったのは天正八年十一月であった。
大和郡山城跡。  順慶の死後、郡山城はそのまま嗣子の定次が引き継いだが、羽柴秀吉の命によって伊賀上野に移封されたのちは、羽柴秀長が但馬出石から入部してきた。この時にほぼ現状の規模になり、石垣も大量の転用石が使われるようになったのは有名である。
 以降は城主がおびただしく移り変わり、秀保−増田長盛−水野勝成−松平(奥平)忠明−本多政勝−政長−忠国−松平(藤井)信之−本多忠平−忠常−忠直−忠村−忠烈−柳沢吉里と続いていく。吉里を藩祖とする郡山藩は、以後保申に至って、幕末を迎えることになった。
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資料  

私見 多聞櫓  金魚で有名な大和郡山城は、城内に城内高校と郡山高校がたっている不思議な城跡です。建物は多聞櫓が復元されています。他に遺構としては石垣と堀が見事に保存されています。
 しかし私を釘付けにしたのは城内に保管されている柳沢文庫でした。柳沢氏が歴史的文書や書物を貯えたことで有名な柳沢文庫は有志の呼びかけで城内に再現されているのです。靴を脱いでガラスの引戸をあけると中には瓦や掛け軸などが展示されていました。いわゆる歴史博物館としていくつか展示してあったのはそれほど珍しいものでもなかったのですが、なにより驚いたのはその蔵書にでした。なかでも「日本城郭体系」が全巻揃っています!私は兵庫県の巻を抱いてダッシュで逃げようかと真剣に考えてしまいました。
 とまぁすっかり柳沢文庫に心を奪われて、たいして城跡には印象が残ってないのでした。(^_^;;;
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