史跡山中城跡
岡崎城主西郷信貞の居城であったが、大永四年(1524)
安祥に居城していた松平清康の奇襲を受け一夜にして落城した。その結果、信貞は清康に屈し、
岡崎城をも明け渡すこととなった。
この城跡は、標高196メートルの山頂を中心に主郭を中心として、東、東北、西北に延びる尾根筋に郭を重ねた連郭式の遺構を残す県下最大級の規模をもつ山城である。現在残されている山城の中でもその遺構を良く残しており、貴重な史跡といえる。

山中城は、三河地方では最大級の山城であり、東海道と額田郡南部への道をおさえる軍事上の要地に位置していた。室町時代、時の城主
岡崎城主西郷信貞は、この城を拠点に家康の祖父松平清康に対抗した。しかし、1524年(大永四年)清康の風雨をついた夜襲にあって落城。山中城を失った信貞は
岡崎城をも清康に譲り、以後、松平氏の本拠は
岡崎城におかれることになった。このように、山中城は松平氏の歴史上、重要な意義をもつ城であった。山頂の主郭、この郭は約3アールの広さをもち、山腹には帯状の曲輪が設けられている。北側と南側は急な斜面になっており、北側の山腹には谷間にむけて曲輪と連結した竪堀がみられる。また、尾根づたいに攻めてくる敵を防ぐための堀切も設けられている。室町時代の典型的な山城の様子を現在に伝えている。