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神指城跡
登城日:(2002.05.22)
所在地: 会津若松市神指町
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 田圃のなかにたたずむ神指城跡  慶長五年(1600)、時の会津藩主上杉景勝が高瀬村に新城の築営を行ったが完成しないまま現在に至る。
 この巨石はここより南方三百米の本丸に慶山村「現・東山町」の山中から運んだといわれる石垣の基礎石で昭和五十八年にここに移し保存するものである。

 慶長五年(1600)120万石を領する時の会津藩主上杉景勝は、石田三成と力を合わせて徳川家康を討とうとしたが、鶴ヶ城は山に近く守備に不利と見て、神指ヶ原に大規模な城郭を築くことを計画、家老直江兼続の指揮のもと12万人の人夫を動員し、昼夜休みなく工事を急がせた。しかし関ヶ原の戦は家康の勝利に終わったため、工事を途中で中止した。それ以後、この城は廃城となり現在にいたっている。

『神指城跡案内板』より

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資料  

私見 田圃のなかにたたずむ神指城跡  どう見ても会津城のほうが守りやすいと思うのですが、築城途中で放り出された城というのも珍しいですね。現在は田圃のなかに数メートルの高さの丘陵地となっている神指城跡には堀もあったらしいです。
 しかし必死になってつくっている城を放棄されられて米沢に転封させられた上杉景勝もさぞかし悔しかったでしょうねぇ。
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