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米沢城跡 登城日:(2002.05.21) 所在地: 米沢市丸の内、松岬公園 |
歴史 |
米沢城は、東北の歴史上たびたび表舞台の役割を果たしている。 米沢城が築かれたのは鎌倉時代の初期(約八百年前)といわれているが、その起源は明確ではない。鎌倉幕府の重鎮大江広元の子時広が、源頼朝の命により置賜地方(長井の庄といわれた)の地頭となり、長井氏を称し、この地を統治した。以後広房の代までの約二百年の間、長井氏支配の拠点として、この米沢城に居館を構えたと伝えられている。南北朝時代の争乱期の天授六年(1380)長井氏は伊達氏八代宗遠によって滅ぼされる。以後、伊達氏は領有の各地に居城を構え、戦略上転々と本拠を移した。戦国期の永禄年間(1558〜1570)に十五代晴宗が本格的に米沢城を築き、領国経営の拠点にしたと考えられる。戦国の雄、十七代独眼竜政宗は、この米沢城で生まれたという。会津の芦名氏を破り戦国大名として大きく飛躍した政宗は、豊臣秀吉の命により天正十九年(1591)岩手沢城(後の岩出山城)に移封された。政宗移封後、米沢城は秀吉の将であった蒲生氏郷の持城となり氏郷の家臣蒲生郷安が城主となった。郷安は近江国松ヶ崎の人なので、米沢城を松ヶ崎城といったとも伝えられている。 慶長三年(1598)秀吉は氏郷の嗣子秀行を宇都宮に移し、越後の上杉景勝を会津に移封した。秀吉は景勝に百二十万石を与え、奥羽鎮護の大任を課した。会津に入封し会津黒川(若松)城を居城とした景勝は、文武両道に秀でた第一の家臣直江兼続を領国経営の第二の要である米沢城の城主とした。天下分け目の関ヶ原の戦(慶長五年、1600)で豊臣方に属したため、天下人徳川家康は慶長六年(1601)景勝を百二十万石から三十万石に減封し、会津黒川(若松)城を没収した。 景勝は家臣兼続の居城である米沢城に入り、松ヶ崎城を舞鶴城と改めたという。米沢に入部した景勝は、城郭の改修、水濠、土塁の築堤、掘立川の造築、城下の町割り、整備等、今日でいう都市計画事業に全力を尽すことになる。この大事業を推進することができたのは、景勝の名補佐役であった兼続の城下町づくりは一応完了したといわれ、現在の市街地の礎となっている。 徳川幕府に対する配慮からか、米沢城には天守閣はなく、本丸の東北、西北の高台に御三階櫓ニ基を建てた。本丸は東西七十五間、南北六十間、東南隅には藩祖上杉謙信をまつる御堂を建て、米沢藩の精神的支柱とした。本丸の周囲に堤を築きその外廓に濠を廻らし、堤の上に掘りあるいは長屋を建て矢狭間を設けている。今日、本丸は上杉神社と松ヶ岬公園となっている。また、本丸を囲むように二の丸が配置され、二の丸にも濠を廻らしている。米沢に景勝が入部してから、明治二年(1869)上杉氏十四代茂憲が版籍奉還するまでの二百六十八年間、米沢城は上杉氏の居城として、政治、経済の中心であった。 ◆上杉の紋 上杉家の象徴である紋は「家紋」と「幕紋」の二種類で、どちらも「竹に雀」の図柄で、正式な呼び名は、家紋が「竹ニ飛雀」、幕紋が「根竹ニ飛雀」です。 この紋の由来は、建長四年(1252)勧修寺家を出て丹波の国は上杉の庄を賜った重房が上杉氏を創立し、公家であった実家の紋を武家上杉のものとして使用したことによるとされています。その後、寛政十二年(1800)米沢藩が幕府に「紺地日の丸」と「昆の旗」とともに「竹に雀」の両紋を届けでてもおり今に伝承されています。この紋の中の「雀」二羽は向かい合っていますが、上杉神社の狛犬や他の神域山門の仁王尊と同じように「阿吽」の形で、口の開きに特徴があります。 なお、この城跡は上杉以前蒲生・伊達の時代に拠点としても使われていましたが、特に独眼竜の異称をもった伊達政宗生誕の地でもあり、そして伊達の紋も「竹に雀」で、それは上杉氏が越後を本拠地としていた時代、伊達氏へ贈与したものと伝えられ、また「竹に雀」の紋は他の公家にもみられますが、武家での紋としては上杉が最初のものといわれています。 ◆史跡 上杉謙信公祠堂(御堂)跡 江戸時代、上杉謙信公の霊骸を安置した御堂(祠堂)のあった場所である。 上杉謙信は、天正六年(1578)三月十三日、越後春日山城内で逝去、四十九年間の生涯を閉じた。同十五日、大乗寺良海を導師とし壮厳に葬儀が営まれ、謙信の遺骸は甲冑を着せ、甕に納め、密閉して葬った。 慶長三年(1598)、謙信を継いだ上杉景勝が越後から会津百二十万石に転封されると、謙信の遺骸は会津若松城に鄭重に移された。さらに、同六年、景勝が米沢三十万石に減封されるのに伴い、遺骸は米沢城内に移された。慶長十七年、この地、本丸東南隅の堤上に御堂を新築し中央正面に謙信の遺骸を安置し、その左右に善光寺如来と泥足毘沙門天像を奉置した。その後は歴代藩主の位牌もまつり、最も神聖な場所であった。厳重な掟が定められ、二の丸に置かれた法音寺、大乗寺などの真言宗寺院二十一ヶ寺が交代で奉仕した。また、謙信の命日には歴代藩主が参拝し、第九代藩主治憲(鷹山)が三日間の絶食をして降雨を祈願した所でもある。 明治四年の廃藩に際し、仏式の祭礼を止め、謙信、鷹山のニ柱をまつり、上杉神社と称し、神祭を行う。同九年には謙信の遺骸を歴代藩主の眠る御廟所(歴代藩主上杉家墓所)に移した。 故に、神聖な御堂のあった場所、とくに遺骸の安置した霊所を記念し、柵をめぐらし記念碑を建て、現在に至る。 『米沢城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
伊達政宗が生まれ、上杉景勝や直江兼続らが居城とした米沢城を訪れてみました。今では上杉神社がある、米沢市民の憩いの場所です。ハトにエサをあげたり鯉が泳ぐ様子をながめている人達。ここには時間がとてもゆっくりと流れています。 周囲を水堀で囲まれた米沢城跡はおおよその規模を窺い知ることができますね。米沢城はまわりに何も遮蔽するものがない、極めて攻めやすい構造になっています。何故伊達晴宗はこのような場所に城を構えたんでしょうね。 今やすっかり上杉の城跡となっていますが、伊達氏や直江氏も忘れてはいけない名君です。この米沢はそういう方を輩出する土地柄なんでしょうか。ほんとその割りにこの城跡は寂しすぎると感じるのは私だけかなあ・・。
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