
元禄五年(1692)七月高山城主金森頼□(よりとき、[縦に:山+ウ+日])は、出羽国
上ノ山に転封となり、飛騨国は徳川幕府の直轄領となった。幕府は八月十八日関東郡代伊奈半十郎忠篤に飛騨代官を兼務させ、二十二日に加賀藩主前田綱紀に高山城在番を命じた。伊奈代官は金森氏家臣四家の屋敷を会所として金森氏転封後の事務処理に当った。元禄八年(1695)四月高山城の取り壊しが始まり、金森重頼の三人の娘が居住していた向屋敷に代官役所を移して、高山陣屋と称した。以降明治維新に至るまで、飛騨国内の政務は高山陣屋で執行された。
元禄八年当時の高山陣屋は、約二万八千平方メートルの広大な敷地を有していた。
高山城三の丸にあった米蔵二棟を陣屋内に移築し御蔵とした以外、建物の配置、規模等は不明である。享保十年(1725)老朽化が激しくなった高山陣屋の建物は、御蔵以外全べて解体され、旧材を利用して御役所と御役宅に区分して建て替えられ、陣屋としての形態が整えられた。しかし、敷地は三分の一に縮小されている。その後、文化十三年(1816)御役所、文政十三年(1830)郡代役宅、天保三年(1831)御門と陣屋の建物は漸次改築された。

この間享保十四年に美濃国の一部、明和四年(1767)に越前国の一部が飛騨代官の所管地となり、また安永六年十二代代官大原彦四郎紹正が布衣郡代に昇進し、関東・西国・美濃と並んで飛騨は幕領の中でも有数の地位を占めるに至った。
明治維新後、飛騨県、高山県、筑摩県、岐阜県と行政区画が変転する中にあって、旧高山陣屋は県政の庁舎等に転用され、また敷地も分割されていった。昭和四十四年飛騨県事務所が移転し、高山陣屋跡の管理は岐阜県教育委員会が所管することとなった。岐阜県教育委員会は全国にただ一つ現存する幕府の陣屋跡を後世に保存すべく、昭和四十五年以来、文化庁の指導・援助を得て復元修理工事を実施している。