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高崎城跡
登城日:(2002.12.23)
所在地: 高崎市高松町、城址公園
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 小ぶりですが存在感がある御二階櫓  高崎は王朝時代赤坂の荘と称し、東山道に属していたが、この地方の中心地とまでにはいっていなかった。
 十三世紀、鎌倉時代和田氏が城を築いてここに居るに及んでようやく地方の中心的存在となり、十六世紀の末期天正十八年、小田原の北条氏と運命をともにするに至るまで、和田城は三百数十年の歴史を誇った。
 慶長三年、井伊直政が箕輪城十二万石の城主から移って、城主となるに及んで和田の地を高崎と改めた。成功高大の義である。この時代、城地の規模を拡張し、中仙道第一の壮大さは、交通の要衝たることと相伴って、要害の名をうたわれた。中仙道はのち中山道と改称された。
 後、酒井、安藤ら数代の城主を経て大河内氏十代の居城となり、明治維新王政復古により廃城となった。大河内氏は初代城主輝貞から第十代輝聲に至るまで、幕政時代ではあるが文治の城主だった。
 明治六年、東京鎮台高崎分営が置かれ、高崎城内は兵営となった。ついで明治十七年歩兵十五連連隊が創設されて以来、昭和二十年八月太平洋戦争の終止まで、高崎は六十余年間、軍部の観を呈した。その間、大小の戦役に従い、特に太平洋戦争には東部第三十八部隊となり、歩兵第百十五連隊をはじめ大小あまた部隊の基幹部隊をなした。
 滅私奉公、国家護持のために散華の郷土出身将兵は実に五万、兵どもが夢の跡とうたった古人の名句が偲ばれる。
 昭和二十年八月十五日、戦い終わり、平和はよみがえった。われらは永遠に戦争放棄の民として更正し、城内は市の行政、教育、文化の中心機関所在地となり、市民生活の中枢となった。
 ここに明治百周年を迎え高崎城回顧の記を録する。
復元された東門 ◆高崎城東門の由来
 高崎城十六の城門中、本丸門、刎橋門、東門は平屋門であった。そのうちくぐり戸がついていたのは東門だけで通用門として使われていた。
 この門は寛政十年正月(1798)と天保十四年十二月(1843)の二度、火災により焼失し、現在のように建て直されたものと考えられる。くぐり戸は乗篭が通れるようになっている。門は築城当初のものよりかなり低くなっており、乗馬のままでは通れなくなっている。この門は明治のはじめ、当時名主であった梅山氏方に払いさげられ、市内下小鳥町の梅山大作氏方の門となっていた。
 高崎和田ライオンズクラブは、創立十周年記念事業としてこれを梅山氏よりゆずりうけ復元移築し、昭和五十年二月、市に寄贈したものである。

『高崎城跡案内板』より

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資料  

私見 かつての規模を教えてくれているような堀跡  群馬県では唯一となっている建築物のある城跡、高崎城にきました。JR高崎駅から市役所方面に徒歩10分ほどでたどりつくことができます。
 城跡は城址公園となっており、復元された東門と御二階櫓がひっそりとたたずんでいました。
 井伊直政が拡張整備を行ったということですが、たしかに見事に地理条件を生かしたつくりになっていたようですね。今でこそ東門一帯と堀跡が残っているのみですが、市役所一帯が烏川と堀跡ですっぽりと護られた状態は現在も確認できますのでだいたいの規模を推測するのは簡単です。
 また、烏川にかかる和田橋横にはこんもりと土盛りされたところを見つけることができると思います。現在は工事が行われていて、その存在が心配されるのですが、実はこの土盛りこそ高崎城の前身である和田城の唯一の遺構なのです。和田城の櫓台として工事がはじまる前は案内板もあったらしいのですが、私が訪れた時には確認することができませんでした。なんとかうまくこの遺構を残していっていただきたいものです。
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