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和田城跡
登城日:(2002.12.23)
所在地: 高崎市高松町
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 工事中の和田城櫓台  和田城は正長元年(1428)に和田義信が築城した。
 やがて天文七年(1538)の河越付近の戦いに討ち果てた和田信輝や、その子和田兵衛大夫業繁らが大いに和田氏の名をとどろかせるようになる。
 永禄四年(1561)業繁は上杉政虎に属して小田原北条氏へ戦いを挑んだが、それが失敗に終わると武田信玄に通じるようになった。それを受けて政虎は永禄六年(1563)二月に和田城を猛攻をかけた。が、城兵の死力を尽くした応戦により政虎は厩橋城に引かざるを得なくなった。その後武田勢の侵出により上杉方の倉賀野城、箕輪城が相次いで陥落することに加えて厩橋城の北条高広の謀反などにより一挙に上杉勢の力が上野から一掃されそうになるが、勢いに乗った信玄の今川攻撃による甲・相同盟決裂と、それが元となる北条・上杉の接近。まさに関東の勢力図はめまぐるしくうつりかわっていった。
 武田信玄、北条氏康のが相次いで死亡した後、天正三年(1575)に長篠の戦いが起こったが業繁は勝頼に従い奮戦した。が、やがて信州駒場にて落命。和田業繁は信玄以来、石倉城の後詰を命じられて、その弟信景は天正八年以後、勝頼から利根川東岸新堀の城の守りを命じられていたようであった。
 やがて勝頼が死ぬと、和田氏は北条氏に属するようになり、天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には小田原城に籠城し、やがて和田城は廃城となった。

新人物往来社刊『日本城郭体系4』参照

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資料  

私見 和田城櫓台の下を流れる鳥川  高崎城の西のはずれの烏川に面した断崖上に和田城唯一の櫓台の遺構があります。私が訪れた日はちょうどこの櫓台を中心とした工事が行われていました。聞いていたのは櫓台の上に案内板があったらしいのですが、今では近づくことさえできません。どうやらこの遺構だけは残されるようではあるので安心はしたのですが、それにしても現存する遺構が目の前で削られていくのは耐えられないものがありますね・・・(^^;
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