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前橋城跡 登城日:(2002.12.23) 所在地: 前橋市 |
歴史 |
◆再築前橋城の概要 再築前橋城は、文久三年(1863)着工後、3年8ヶ月かかって慶応三年(1867)3月完成した。城の縄張りは、旧前橋城三ノ曲輪を本丸とした渦郭式(渦巻き状に曲輪が続く様式)で、城郭総坪数は旧前橋城に匹敵した。城を取り巻く土塁の要所要所に砲台が設けられるなど近代的な城郭であったが、完成を急ぐあまり城門や建物は簡素なものであった。しかし、城は城郭としての機能を果たさないまま明治維新を迎え、本丸御殿(後の群馬県庁舎)を残して取り壊した。現在、本丸後が群馬県庁となっているが、現存する城の遺構は少ない。 前橋は古くは厩橋といった。東山道の群馬の駅(うまや)が近く、それが地名の起りであろうという。 厩橋城が築かれたのは十五世紀末頃で、初代城主は箕輪城主長野氏の一族長野左衛門尉方楽(法号固山宗賢)と推定されている。以後長野氏らの厩橋衆が拠っていたが、天文ニ十一年(1552)小田原北条氏の勢力が上州に及び、永禄三年(1560)には、長尾景虎(上杉謙信)が厩橋城に進出して翌年小田原を攻撃し、関東奪回をはかった。 このあと上杉氏の家臣北条高広が厩橋城を守っていたが、その戦略的な要害が群雄争覇の目標とされ、上杉、北条、武田氏の間に攻防がくりかえされた。 天正十年(1582)武田勝頼が敗死すると、織田信長の武将滝川一益が厩橋城に入って関東管領を称したが、信長の急死によって本国へ帰り、城は北条氏の手中に帰した。ついで天正十八年(1590)四月、小田原征討軍の浅野長政らに攻められて落城した。 同年八月関東に入国した徳川家康は、重臣平岩親吉を厩橋城三万三千石に封じた。親吉は治政十一年をへて、慶長六年(1601)甲府に移り、代って川越から酒井重忠が入封、以後九代百数十年の間、酒井氏の藩政が続いた。四代忠清は大老となり、下馬将軍の名で知られる。 酒井氏時代の前橋城じゃ城域十五万坪余に及び、西に利根川の断崖を背とし、東南にのびる丘上に郭と濠をめぐらしていた。本丸は西端にあって、ここに三層の天守閣があった。五代忠挙の時、城下は最も栄え公称を前橋と改めたが、その晩年は財政に苦しみ、寛延二年(1749)忠恭の時、姫路に転封となった。代って姫路から松平朝矩が入封したが、酒井氏時代以来難題であった利根川の激流による城郭の破壊が進み、その修復に苦しんだ松平氏は、幕府に願って明和四年(1767)川越へ移城した。以後、前橋城は廃され、八万石に近い城付領は約百年の間、川越藩の分領として陣屋支配を受けることとなった。 この間、主を失った城下町は衰え、領民は再三にわたって帰城を請願したが、幕末の藩主直克の決断により文久三年(1863)十二月、幕府から再築の許可を得、慶応三年(1867)三月竣工して、城が実現した。この背景には、前橋領の特産生糸貿易の活況に寄せる藩政再建の願いと、生糸商品ら領民の莫大な献金、労力奉仕があった。しかし、わずか半年で大政奉還となって、廃藩置県後、城郭は廃されたが御殿は残されて県庁舎となり、そのため前橋の街は今日の繁栄をみている。碑文は、藩主松平直克の再築の功を偲んでこの碑を建てるとある。 この城址碑の位置は、旧城三の丸東南隅の土居上に当る。碑の題額は、直克の長子松平直之氏、撰文は、修史局編修官、のち東京大学教授、貴族院議員になった重野安 繹氏である。書の日下部東作氏は鳴鶴と号し、明治書道界の重鎮である。 『前橋城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
JR前橋駅から徒歩30分ほどで群馬県庁、いや前橋城跡に到着します。県庁が城跡になっているのは福井城以来です。やはり福井県同様、ほとんど遺構が破壊されてしまっています。厩
橋城の時代から歴史にたびたびその名を轟かせた名城であるだけに、もっと大事に扱ってもいいんじゃないでしょうかねぇ・・。 かつては隣接する利根川の激流に悩まされたとありますが、現在は川面から県庁が建つ地点との差は数十メートルはあり、今では全然信じられません。松平直克公の頑張りのおかげなんでしょうか、いずれにせよ現在はかなり寂しい扱いを受けている前橋城です。なんか今も工事をしてましたが、そのなかで少しは城跡のことも考えていただきたいものです。
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