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吉田郡山城跡


登城日:(2006.10.29)
所在地: 安芸高田市吉田町吉田
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
毛利元就の墓所  郡山城は、南北朝時代の建武三年(1336)毛利時親が郡山東南麓に旧本城を築城、後に元就が郡山全山を城郭化し、さらに輝元が改修を加えた大規模な山城で、毛利氏約260余年間の居城であった。
 郡山城は、北流する可愛川と、それに注ぐ多治比川との合流点の北側にあり、標高390メートル、比高190メートル、範囲は約1キロメートル四方に広がる。
 遺構は、山頂に本丸、周囲に二の丸、三の丸ほか御蔵屋敷の壇、勢溜の壇、姫の丸の壇など、大小約270の曲輪が配され、ところどころに石垣の跡が見られる。
 天文九年(1540)九月、尼子晴久が三万の大軍を率いて来攻したが、毛利軍は小勢ながらよく戦い、翌年一月尼子軍を敗退させた。
 その後毛利氏は、この城を本拠として、中国、北九州にまで勢力をのばした。
 天正十九年(1591)輝元の広島城移城後は廃城となり、江戸時代に入って建物、石垣等も壊され、掘も埋められた。
 郡山城は、中世山城の特徴を今に伝える貴重な遺跡である。

◆毛利元就火葬場跡
 毛利元就は、元亀二年(1571)六月十四日、御里屋敷で75歳で逝去、波瀾の一生を閉じた。
 遺骸は、翌十五日大通院に移し、正殿に安置し、法名を日頼洞春と称した。三原妙法寺の住職嘯岳鼎虎禅師を招聘し、六月二十日初七日の法会を営んだ後、この火葬場で荼毘ひ附した。火葬の際には10間(18メートル)四方の間に小石を敷きつめ、沈香を焚きその香りは遠くまで匂ったという。
 この火葬場跡は、3間四方を石垣で囲み、中に栂の木を植えた。栂の木は高さ約10メートル、周囲約3メートルに達したが、昭和四十六年枯死した。

広大な郭、御蔵屋敷跡です。 ◆御蔵屋敷跡
 御蔵屋敷跡は、東西約20メートル、南北約30メートル、面積600平方メートルの広い敷地を持つ。
 北に釣井の壇、東に三の丸、西に勢溜の壇に通じている。この屋敷の東側に多くの散乱した石が高い石垣もあったと想像させる。さらにその上の曲輪で通路沿いの一部に石垣(高さ12メートル、長さ3.5メートル)が残って、当時をしのばせている。さらにその一段上が二の丸となる。
 郡山古城図(山口常栄寺蔵)に御蔵と書かれているが、れれがこの地と思われる。

◆郡山城三の丸跡
 三の丸は、城内で最大の曲輪である。曲輪内は土塁や削り出し等によりさらに四段に分かれている。
 二の丸とは、約3.5メートル下段にあって、東西40メートル、南北47メートルの広さがある。西の段と南の段は石塁でへだて、北の段とも1メートルの比高差を持たせて石垣で画している。
 この西の段からは二の丸・御蔵屋敷につながる曲輪への通路がのびており、しかも西の段下の石垣や階段がみられるところからみて、登城には御蔵屋敷から南側の帯曲輪を経由し、その階段を上がるとこの三の丸虎口(西の段)につながると考えられる。
 西の段は周囲を石垣や石塁で囲まれていることもあり、この部分が、郡山城のなかでは最も新しい時期の遺構であったと考えられる。

郡山城二の丸虎口前にある半円状の石積み ◆二の丸跡
 二の丸は本丸の南につながり、約2メートル低く北西にある石列で画した通路でつながっている。
 東西36メートル、南北20メートルの広さであるが、周囲を高さ0.5メートル、幅1メートルの石塁や石垣で27メートルと15メートルの方形に区画しており、実用面積は約400平方メートルと本丸よりひとまわり小さい。また、この石塁の外側には、幅0.5メートルから1メートルの平坦面もみられる。
 この二の丸の南側には、高さ約3メートルの石垣が残るが、この石垣は明治初年に行われた毛利元就墓所改修の際、ここから石を運んだという記録があるので、石垣は曲輪の東西両側にもあった可能性が強い。
 南にある三の丸へは、幅1.5メートルの通路があり礎石も残ることから、小形の桝型をした門、あるいは塀があったと思われる。

二の丸から本丸までを見上げます。 ◆郡山城本丸跡
 郡山城の本丸は、郡山の山頂に位置し、一辺約35メートルの方形の曲輪でなっている。その北端は一段高くなった櫓台がある。櫓台は長さ23メートル、幅10メートルの広さで現状は破損が著しい。この地点が一番高く、標高389.7メートル、比高約200メートルになる。
 城の遺構は、山頂本丸曲輪群を中心に放射状にのびる6本の尾根、さらにそれからのびる6本の支尾根、あわせて12本の尾根と、それらに挟まれた12本の谷を曲輪や道で有機的に結合させ、まとまりをもたせた複雑な構造をなしている。
 曲輪も大小合わせて、270段以上みられる。
 大永三年(1523)に毛利元就が郡山城の宗家を相続し、郡山の南東にあった旧本城を、郡山全山に城郭を拡大していった。元就はここを本拠城として、幾多の合戦を経て中国地方の統一を成し遂げた。

◆厩の壇跡
 本丸の東南方の長さ約400メートルにも達する最大な尾根の基部にあって、17メートルと24メートルの壇から尾根に沿って7段と、それから北に分かれる4段の曲輪からなる。
 最大の曲輪は、尾根の上中央の基部から3番目の曲輪で、約410平方メートルの広さがあり、それから下方へは帯曲輪状の小曲輪を並べている。北側の4段は基部の曲輪の守りのためと考えられ、いずれも小さい。
 なお、基部の曲輪から釜屋の壇へは通路がのび、南側の段へも通路があり、幅3メートルから5メートルの付曲輪がある。この南側下の段が馬場と呼ばれているところから、厩の壇には厩舎があったところと考えられる。

◆勢溜(せだまり)の壇跡
 勢溜の壇は、本丸の峰から南西へ長くのびる尾根を、御蔵屋敷の下段を堀切で区切って独立させ、十段の大型の曲輪からなる壇で、尾根沿いに比高差約1メートルで、面積約500平方メートルから700平方メートルの広さの曲輪を四段連ね、その先にこれらを取巻く帯曲輪を三段、さらにその先端には付曲輪を加えている。
 この曲輪群では、特に東南方の大手、尾崎丸方向への防御は厳重で、たとえこの方面を破っても、この三重の帯曲輪で防ぐことができ、現在の登山道が当時のものとすれば、さらにこの上の勢溜の壇の曲輪群から攻撃できる構造となっている。
 ここには本丸守護の兵が滞在していたことがうかがえる。

◆満願寺跡
 満願寺跡は、郡山城跡の三の丸の西南で御蔵屋敷の南、難波谷を登りつめたところに位置する。現在でも境内の北側に、東西に二つの蓮池が残っている。
 毛利氏が入城する以前のかなり古くからあったと伝えられ、寺伝によると天平十二年(740)に行基菩薩が当地にこられ、可愛川釜ヶ淵で、小さな観音を得られ、自ら大きな千手観音木像を彫刻し、満願寺を建て、これを安置したということに始まる。
 大永三年(1523)元就の本家相続が決定し郡山に入城するにあたってこの満願寺法師栄秀の説により入城の日(八月十日の申酉の刻)が決められたことや、永禄十年(1567)には越前の幸若大夫が満願寺に滞在し幸若舞を舞ったこと、同十一年(1568)には、観世大夫宗節一座の能狂言が行われたこと、さらに、元亀三年(1572)には、法華経読誦千部会が行われたことなど記録にある。
 この寺は毛利氏の移城に伴い、広島に移り、さらに、萩城内に移っていたが現在は防府市にある。

『吉田郡山城跡案内板』より

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資料
 

私見
郡山城本丸です。  吉田郡山城のある吉田町は周囲に山城がひしめきあっている城好きにはたまらない地域として、以前より機会をうかがっておりました。猿掛城を皮切りに手当たり次第に登城口にとりついてはうろうろ散策し、食事を取るのも忘れて熱中してしまってました(笑)。そんな中「いよいよ」とばかりに本城である吉田郡山城をめざすことにしました。全山に郭を配置したかなり大規模な山城のようで、相当時間がかかりそうな予感です。少し登ったところにある駐車スペースに車を停め、まずは元就の墓を見に行くことにしました。この駐車スペース周囲はかなり急ピッチで工事、整備が進んでいる様子で2007年春から始まる100名城スタンプラリーにあわせて行われているのでしょうか。こういった光景は各地で見てきましたが、面白いものですね。
 墓があるところから登城道をただまっすぐに本丸方面をめざしていきます。要所要所に共通の案内板があり、現在位置がわかるようになっているのが分かりやすくていいですね。郡山城は本丸を中心に放射状に伸びる尾根上に郭が配置されていますが、まず着いたのが「御蔵屋敷跡」です。ここを左にいくと「釣井の壇」「姫丸の壇」と続き、右に進路をとると「二の丸」「本丸」となります。広大な敷地面積の削平地と石垣が少し残る程度の「御蔵屋敷跡」ですが、全体を通じてだいたい近い印象の郭が全山に配置されているのですからすさまじい要塞ですね。まともに攻めたらどれだけ被害が出るんでしょう。
満願寺跡。  「二の丸」は虎口付近に面白い遺構が見られます。半円状に虎口を囲むようにして三段ほどの石垣が組まれていた跡が見てとれます。一体どういった役割を果たしていたのでしょうか。そしてその先が「本丸」へとつづきます。「本丸」は大きく二段に分かれており、最高所からはかなり遠くまで見渡せていたのでしょう。現在の状況は寂しいもので、ただこの地に立っていることを噛みしめながらかつての様子に思いを馳せるより他ありません。
 その一方で「三の丸」は遺構が一番楽しめますね。土塁と石垣で広大な面積を仕切られており、また石垣の跡も多く散乱しています。そこから「釜屋の壇」「羽子の丸」や「厩の壇」などへと続いていきます。随所にある案内板がなかったら完全に迷子になっていることでしょう。
 郡山城を踏破するとかなり時間が必要になりますのであまり周囲の郭にまで目がいかないかもしれませんが、1つだけチェックしていただきたいところがあります。それは本丸から見て南東の尾根先にある旧本城です。元就が現在見られるような縄張りに拡張するまでの郡山城の姿なのですが、今まで見てきた遺構とは明らかに違う城のそれとなっており、大変興味深いです。詳しいことは別ページに譲りますが、吉田郡山城に行かれたら旧本城もぜひ訪れてみてください。100名城スタンプラリーが始まる2007年春にはこちらも整備されるのでしょうかねぇ。私が訪れたときは少し藪こぎしないといけませんでしたので、そういう意味ではお奨めしにくいのですが(^^;
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