
今を去る四百有余年前、時は天正五年(1577)主君織田信長から中国征伐を命ぜられた羽柴秀吉が、播州一円の攻略に当っていたが翌年六月、播州三木の城主別所長治の討伐に向い、この平井山に本陣を構え、数千の城主が立てこもる
三木城を十重二十重に包囲し、約三年の歳月を要して遂に陥落した。
城主別所長治一族は、城兵の助命を請うて自刃し、東播の地は完全に秀吉の翼下となった。時は、天正八年正月十七日である。秀吉もこの対陣中に軍師竹中半兵衛重治を失い、大きな痛手を受けたがこれが後年秀吉が自慢する三木の兵糧攻めであり、全精力を傾けて策略を練った本陣跡がここである。(『平井山本陣跡案内板』より)
◆竹中半兵衛の墓
一世の軍略兵法家として知られた竹中半兵衛重治は、初め斎藤龍興に属し、後に織田信長に従い、秀吉と共に各地を転戦し殊勲を立てました。しかし、三木城攻防戦がたけなわの頃、平井山の陣中に胸を病み、一時は京都に移って療養していましたが、固着した戦況を心配しこの地に帰ってきました。けれども、病魔には勝てず天正七年六月十三日、三十六歳の若さをもって永歿しました。臨終の時、秀吉に対して将来の「天下人」と予言し息を引き取りました。秀吉は「お先まっくら」と人前もはばからず遺体にとりすがったといわれます。