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烏崎城跡登城日:(2006.01.28) 所在地: 神戸市垂水区東舞子町 |
歴史 |
嘉吉元年(1441)赤松満祐、教康父子の手により将軍足利義教が宴席で暗殺された。満祐は自領播磨坂本へ逃げ帰り、足利直冬の孫義尊を将軍として擁立し、幕府と徹底抗戦の構えを見せる。幕府は義教の子を次期将軍とし、赤松追討軍を派遣した。世に言う嘉吉の乱である。
追討軍は、摂津や阿波から播磨へと進む軍と、山名氏が率いる搦め手軍とに別れ激しく攻めたてた。このとき舞子一帯も戦渦に巻き込まれたが赤松勢は高台に立つ烏崎に城を構え防戦したという。 やがて各地で赤松勢の敗退が続き、満祐は城山城にて自刃し嘉吉の乱は一応の終着を迎えた。
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資料 |
私見 |
嘉吉の乱の際に戦場となった城跡はこの附近では赤松祐尚が居城した大蔵谷城、和坂構居などがあります。繋げていくと当時の戦線がわかって面白そうです。さて、この烏崎城もそんな嘉吉の乱の時に戦場となった城のひとつです。現在の舞子ビラがたっている高台がそうらしいのですが、今やその跡形はありません。海側から見上げればかなりの地の利がありそうですが、山側からみればさほど要害とは思えません。満祐はどれだけの勝ち目があると思っていたんでしょう。明石海峡を見渡せる景勝の地から当時見えていたのは細川氏の大船団だったのでしょうね。今は想像するのも困難ですが。
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